フォークルの時代/若い加藤和彦のように | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて10年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

身体の疲れ具合は、たぶんに精神的なものが大きいと思う。

実家で「断捨離」に向き合っているときには感じなかった、腰のはり・膝の痛みが一挙にやってきました。

自宅に戻り、ほっとして気が緩んだからだと思われるのです。

昨夜から、寝たきりの状態(病人ではありません)でTVを眺めていました。

今日の15時30分から、BSプレミアムで「早過ぎた人・世紀の伊達男 加藤和彦」の再放送を観ました。

加藤和彦(トノパン)は、昭和22年(1947)に京都で生まれました。

程なくして鎌倉に移り、逗子・東京で育つ。

祖父が仏師だった関係で、実家のある京都の大学(龍谷大学)に通う。

加藤和彦01


昭和40年(1965)、ファッション雑誌「MEN'S CLUB」にバンド仲間を募集する。
(この手法は、後にCAROLが踏襲した)。

アマチュアバンドは就職を迎えて解散することになり、自主制作をする。

ザ・フォーク・クルセダース、このバンドが日本の芸能界の十字軍になったのでした。

回転を操作して、不思議な感覚を醸し出した「帰ってきたヨッパライ」

「はしだのりひこ」を加えて再結成した、1年こっきりの「ザ・フォーク・クルセダース」

加藤和彦02


親友が朝鮮学校で聞いた曲を翻訳し、採譜した「イムジン河」は民謡だと思っていた曲が、実は北朝鮮に作詞作曲家がいるとわかり、発売前日に中止となる。

政治問題になったのですね。映画「パッチギ!」はその当時の世相を表していますね。

発売中止の連絡を受け、楽屋で東芝EMIの社長から代替曲を依頼され、わずか3時間で作曲する。

これが有名な「悲しくてやりきれない」で、「イムジン河」のメロディーを逆さまにしているうちに、湧いてきたコンセプトだという。ちなみに作詞は「サトウハチロー」に依頼した。

そして、「フォークル」は当初の約束通り、たった1年で解散するのです。

その後も、「青年は荒野をめざす」「あの素晴らしい愛をもう一度」を世に出しています。

「人とおなじことをしたくない・同じ事は二度とやらない」

加藤和彦さんはダンディーだったのでしょう。

子どものころ、家庭ではドライカレーが料理され、スパゲッティーのことを「パスタ」と言っていたという。

後に「ロールスロイス」を購入するためにイギリスまで行く人である。運転免許も持っていないのに。

昭和46年(1971)には、「サディスティック・ミカ・バンド」を結成します。

加藤和彦03


日本の音楽業界の先端を行くような人でした。

彼をもっとも理解する、8歳年上の「安井かずみ」さんと生涯を共にした。

以降の作品はすべて、彼女の手によるものだった。

加藤和彦04


その最愛の妻も、癌で失ってしまう。

以降の彼は魂の抜け殻のようだった。

それでも、「坂崎幸之助」さんに励まされて結成した「和幸」。

このころの画像をよく繰り返してみています。

平成21年(2009)10月16日軽井沢の自宅で「今日は空が青い」という言葉を遺して自裁する。

彼が亡くなって5年。それでもまだ彼に誰も追いついていない。

ときおりYou Tubeを観る。最期はこの曲になってしまう。

生前作曲された曲に「きたやまおさむ」が作詞した曲です


「若い加藤和彦のように」


数えきれぬ 血が流れ涙枯れて しまおうと

若い加藤和彦のように 見果てぬ夢を追って

きっとあるさ 自由な空

みんなあきらめて

冬の風に凍りついても

飛べる翼もかれても

若い加藤和彦のように 何度も舞い上がる


以下省略します