電車内で“コーヒーが冷めないうちに”という書籍の広告があり、キャッチフレーズに4回泣けますと書かれている。読者の紹介でも「私も泣けました」的なものが大半。泣きたい人はこれを手に取るのだろう。しかしそもそもなんでそんなに泣きたいのか?日常で泣くことがないからか。もしくは泣くことによりストレス解消になるとおもってのことか?よくわからんが、最近この手のが多い。映画でも同じ。しかし観客を泣かしてやろうという意図からつくられてるとしたら、それは違う。それは決まって陳腐なものになる。しかしそういう安っすいお涙ちょうだいものでもヒットするからたまったもんじゃない。ホンモノが受け入れられなくなる。最近みた映画では“オーバー・フェンス”がダントツ。オダギリジョーと蒼井優の演技はすばらしく、常に引き込まれ印象に深く残った。佐藤泰志さん原作ものではこれがもっとも気に入っている。“そこのみにて光輝く”も強烈な名作で素晴らしいが、“オーバー・フェンス”の方がおれにはしっくりくる。いま、佐藤泰志さんの海炭市叙景を読んでいる。この空気感もたまらなくいい。貧困と絶望が通奏低音のように物語を支配している。そして現実の辛さを受け入れざるをえない人物たちのなんともいえない心情、葛藤。いやそんな簡単に言葉では言い表せない複雑で多くのものをこの作品たちは包含している。“エリザのために”という最近観た欧州映画もどこか似ている。この映画はドキュメンタリーのような実に等身大の物語で、設定がなんともおもしろい。主人公の医師には病弱の奥さんと受験を控えた娘がいる。典型的な家族想いような医師だけど、彼にはシングルマザーの愛人がいる。それらの関係性が巧みに描かれる。ひんやりとした空間。これも等身大な描写である。こういうのを観ると“泣きたい”映画や本のお手軽さにはまったく惹かれない。
 
AI。スピルバーグが何年も前に映画化した題名。これをいまよく耳にする。このまえラジオで言っていたが、もう40年もするとAIの進化はとんでもないレヴェルに達するらしい。職業を奪われた人間はどうするのだろう。それと絶対の思考能力を保有するらしいから、いま街を雑音で賑わしている各党の主張なんて子どもだましだと瞬時に見破られるだろう。そのうちAI党というのが出てきて政権を手にするかもしれない。それに投票するのも人間じゃなくAIだったりして。人間VSAIの抗争。これが激化してターミネーターの世界になる。明るい未来なんてどこにも見出せない。