■しょっちゅうチェックしたくなる気になるメールが来るわけでもないし、これといっておもしろい情報があるわけじゃない、というのが分かると自然とケイタイから離れるね。
電話やメールに気がつくのが遅くなるが、だからといって困ったことにはならない。
ケイタイを見ているときはなにかに囚われている気持ちになるから、離れると自由を感じる。この解放感はケイタイから離れられない人にはわからない。
少し前はケイタイ依存の弊害といってメディアは取りあげていたけど、最近はほとんど取りあげない。
スマートフォンの販売に悪影響がでるとの懸念から、どこかの団体がマスメディアに圧力をかけているのだろうか。
ケイタイよりスマホの方がよっぽど危険なはずなのに、これはおかしい。
結局人間は“便利”と“楽”には負けてしまうのだろう。
いままでの人類史がそれの追及できたから、いきなりの路線変更はできない。
目の前にうまそうな料理があるのに、それを食わないで横にある粗末な料理(昔に人にとってはご馳走)を選ぶ人はいない。
でも今おれらが食っている食べものは昔の人から言わせれば薬の味がして不味いって言うかもしれない。
現代人はおそらく味覚などの五感が麻痺している。
魚なんか昔の方が断然うまかったと言われるし、味付けで誤魔化されているのだろう。
人の五感が鈍くなるにつれ、それを肩代わりする機器端末の分野は発展してゆく。
ここには整合性のとれた数式があるはずだ。
要は人の代わりに機械が代替わりしているに過ぎない。
それで生活ができるものだから誰も困るわけでもない。
これが加速していくと最終的にどうなるか。
人は快楽だけを味わうようになり、面倒なことは一切やらない。極端に言ってしまえばこういうことじゃないか。
そこにはいま盛んに叫ばれている人との結びつきや絆といったことは残っているのかと言えば、たぶんないだろう。
そもそも現在の“絆”という動きは、単なる広告でしかないと思っている。
口先だけで言っていれば安心、それでおしまい。合言葉だ。
それを深堀して真剣に行動する人はどれくらいいるか。
真剣にそれが必要だと危機感をもっている人だけが独自に考え実行するけど、その他多くの人は流行語程度にしか考えない。
だからこういうのはあまり大きな力にはならない。
元も子もない言い方だけど、人間の本流は(無意識な)本能には逆らえないものだとおもう。