■知り合いがiPadを買ったとかで、見せてもらった。

まあ至れり尽くせりっていうんですか?よくあんな小さい箱になんでもかんでも詰め込んだものだ。

“地図”を選べば勝手に現在地が表示され、“ユーチューブ”を押せば落語もスポーツも動画が見られ、“新聞”を開いては見やすく、しかもこれらすべてがタダ。

あ、そうだ、ゲームもじつに豊富。いったい何種類あるんだか。

要はインターネットをそのまま持ち歩いているようなもの。

はじめはおれもその多彩な機能に驚きおもしろがって操作したが、数分も経つと、これは持ちたくないな、と思うようになっていた。

通常のケイタイでも情報機能の過剰さに嫌悪感を抱いている人間にとって、iPadはとんでもなく“重たい”機械でしかない。

暇つぶしが暇つぶしじゃなくなり、そっちの方がおもしろくなり本業になってしまう。

おれみたいなタイプの人間はiPadの虜になり道をふみ誤るに決まっている。そういう危機性がこの箱からじわりと漂ってくる。


ひとつだけ例をあげるとすると、これを持つと方向感覚が完全に鈍るだろう。

カーナビが登場した当時からだけど、頭で迷い考えることなくこの機械ばかりに頼っていたら、脳内にある“位置認識機能”は使われないことによりどんどん退化していく。

昔っから当たりまえにあった人知能力が劣るのは目に見えている。

おれは生まれながらに身体に備わっている能力は、めんどくさく大変だろうが鍛えつづけていきたいと考えている。

こういう考えは時代錯誤で古いから大多数の理解は得られないだろうが、おれはそうおもう。


一つ一つの機能がもうお節介すぎるね。

自分が世の中に対して求める科学技術(発明)のレベルはもうとっくに到達してしまった。

今の新機能のほとんどは望まない過剰な装置なのだ。

過剰なモノが目の前にあるというは、うっとうしいだけにしかならない。

そんなもん自分の足で歩いてとりにいくからいいよ、って。子どもじゃないんだから。


でもこんなことはメーカーもほとんどの消費者も考えない。

新製品が華々しく発売されたらなんの疑念もなく飛びつく。

また商流がそういう仕組みになっているんだ。

新機種に乗りかえたほうがすべてがリーズナブルになるように。うまくできていやがる。

世間全体がこういう流れ。それがいまの市場経済主義。

今後もますます望まない機種が出現するとおもうと、もうかんべんしてくれよ、とおもう。

おれは本とWMだけあればいい。

その本にしても最近はどんどん処分している。

家にモノがあるのも嫌になってきたから古本屋にいくつもの紙袋でもっていった。

二束三文にしかならないが、すっきりした部屋は気分がいい。

最近こうしてどんどん身軽になってくる。