
映画は、父を失ったオスカー少年の心の機微を中心に描いているが、その対象はもっと広く、このテロによって傷ついた多くの人々の気持ちもふくんでいる。
オスカー少年はたった一人で葛藤と闘い奮闘しているようだけど、周囲の誰もが彼をちゃんと見守ってくれている。
毎日彼に汚い言葉をあびせられるマンションの管理人でさえも、ちゃんと彼を気にかけている。
映画を観終わってこれほど爽やかな気分になったことは最近では稀だった。
オスカー少年は、父を失ったことによるどうしようもなく巨大で処理しきれない喪失感にうちのめされる。
もっともそれは母親も同じことで、彼女も呆然自失とした毎日をおくり、その苦悩は計り知れない。
しかし少年は母親とは相容れないで「あのビルにいたのがお母さんだったらよかったのに!」と感情をぶつけたりする。
簡単には理解しあえない親子関係の難しさを見るにつれ、胸にぐっと迫るものがあった。
この映画にはたくさんの“なにかが欠けてしまった人々”が登場する。
彼らをオスカー少年が紹介する役割を担っており、こういう手法はおもしろいなとおもった。
それに安っぽい映画だと、安易な結末に陥りやすいのだが、この作品はそんなことはない。
ほどいい余韻がいつまでも残るような終わり方である。
これは音楽やクレジットにも細かな配慮が行きわたっている成果でもあろう。
アメリカの人は、小さい子どもでも大人と対等な人間とみなしており、個をとても尊重しているようにみえる。
でも日本は子どもを未成熟な人間とみている節がある。
それはこの国独自の縦社会の影響も要因の1つなんじゃないかな。
「子どもはすっこんでろ!」なんていう社会だからね。
個人的には大人も子どもも大差はないと考えている。
男女も違わない。
年齢や性別でなにかを分け隔てること自体がよく理解できない。
今この地上で生きているということだけで、奇跡的な出会いだとおもう。
小さなことで片意地張ってもつまらない。
そう考えて、先輩を先輩と過剰にとらえないであえてフレンドリーに接したり、後輩には「敬語は使うなよ」と言ったりしてきたが、いろんな軋轢はあった。いまもある。
でも、そうおもうんだよね。みんな平等なんじゃないかって。