■“春の祭典”の初演、パリの聴衆はあまりの激しく意味不明な音楽に拒絶反応を示し、スキャンダルが巻き起こったことは有名だ。

それと同じ反応がプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の初演時にもおきていた。

この両曲ともおれは大好きだ。

ニューヨーク・フィルのネットでギルバート指揮ブロンフマンの独奏によるプロコの2番協奏曲を聴いたが、これは優演だった。

ブロンフマンは先のショスタコーヴィッチの協奏曲でも明確な強い意志によるすばらしい演奏を聴いたばかりだった。

このピアニストは、音がものすごく鮮明で、高度な技術に支えられた安定した指さばきをもち、しかも音楽に対する洞察が深いようにおもえる。

説得力が強いうえに、盛りあげ方も上手い。

最近、指揮者のゲルギエフとともにおれの中では急上昇中のアーティストだ。

それにしてもこの協奏曲2番は、重厚な音楽だ。

終楽章なんかは不協和音と金管とパーカッションによる強音で、聴いているものは度肝を抜かれる仕組みになっている。

ずっと前に聴いた小澤征爾さん新日本フィルと野原みどりさんによる実演も壮絶でおもしろかった。

終楽章は椅子から転げ落ちそうになるくらいの迫力で、その後にやったベートーヴェンがかすんでしまったほどだ。


でも、残念なことに最近の演奏はどれも洗練され、毒がそぎ落とされてしまっている。

パリの聴衆が体験した響きとだいぶ違うんじゃないかと想像している。

この曲が本来もっている野蛮さや卑猥さは当時の方が数倍あったんじゃないか。


数年前に川崎で聴いたアーノンクールとウィーン・フィルによるベートーヴェン“第7”の野蛮さにはおどろいた。

それまで聴いたどの“第7”と違っていた。極端なまでにデフォルメされた独特な曲質があぶりだされ、牙をむいて迫ってきた。

ベートーヴェンの音楽に対する認識が一変した瞬間だったし、その興奮は最高のよろこびになった。

こういう経験は稀だ。でも音楽とはこういうものだ。

作曲家が意図した効果を荒いながらも実現した演奏を聴いていきたい。

頭が大混乱におちいるような壮絶な演奏にであって、人生が一変してしまうような経験をしたい。


ではまた来週!