■二度と見るつもりのなかったTV番組を仕方なく見ていた。
昨夜8chの報道番組でやっていた、石原都知事と橋本大阪市長の対談は、さほど核心にふみこんだ内容とは言えず、やっぱり民放バラエティーではこんなところまでしか出せないのだろうと、たなはだ物足りないおもいに拍子抜けした。
もっとも、おれはこの二人の言動にはとくに賛成の立場ではない。
ただたんに“ものいい”がおもしろいからという興味本位で見ている。政治的な見解は一歩も二歩も引いた目線でみるクセが身についているし。
とは言っても、中には共感できる部分もあった。
例えば、石原氏が最近再三言っている“今の日本人は我欲にまみれている”ということはおれも同じように考えていることだ。
その他の内容もどこかで聞いたものだから、さして目新しくはない。
しかも議論のほとんどがカットされているにきまっていて、肝心のおもしろいところは放送されていないだろう。
こういう放送されない部分がいちばんおもしろいのだけど、放送されないのだからおれたち一般視聴者は知ることができない。
“TVで放送できる境目”というのは実はそれほど大きくない。
当たり障りのない内容でないと、抗議をうけ社会的物議をかもし出すから、局としては尻込みする。必然、報道とはなんぞや?となるし、そんなものがおもしろいわけがない。
この点、ラジオの方がはるかに自由にものを言っているからおもしろい。
よくそんなことが言えるな、というような過激でゆるい“ものいい”をラジオではよく耳にするので、こっちのほうがだんぜん楽しい。
■と、ぜんぜん題名と違うマクラになったが、本題は短い。
シューベルトのピアノソナタをこの週末は聴いていた。ピアノニストはアンスネス。後期ソナタ集。
第19番の終楽章は内田光子さんの演奏で親しんできたが、こういうタランテラ的、舞踏的躍動に満ちたシューベルトというのは、彼の最良の持ち味の一つだ。
ほんとにシューベルトという作曲家は、天使のような無垢でうつくしい音楽を書くとともに、こういう悪魔的な死の音楽においても素晴らしいものをもっている。
ひたすら死に向かって失踪していく避けがたい運命を背負った男。この音楽のイメージは女というより男だ。
けっつまずきながら、そのさきに見えるどす黒い光は死とわかっているのに、走っていくことをやめない。そんな焦燥感に満ちている。
それと第20番のニ楽章。この寂しさったらたまらんね。いいですわ。
シューベルトはいまいちばんおれに合う音楽かもしれない。
しかもこのアンスネスの演奏がとても素晴らしく、明確にシューベルトのメッセージが伝わってくるように思えるのだ。
それとともにストラヴィンスキーの春の祭典。
なんじゃい、シューベルトとぜんぜん違うやん!!という激しさの極みの音楽も。
これをダニエル・ハーディング指揮ニューヨーク・フィルハーモニックでネットから聴いたが、これも良かった。
この前の週に同じコンビでマーラーの交響曲第10番(クック版)も聴いたが、それは金管群の大きすぎる絶叫がやたらと耳について、いまひとつだった。解釈がよかっただけに、ここは残念。
しかしこのストラヴィンスキーでは、金管の炸裂が曲にあっているせいか、違和感はない。
この曲は、激しい不協和音の応酬など原始的イメージがつきまとっているが、実際は室内楽的な静かなシーンも多い。
“不気味な静けさ”を出せているか、ここがおれの聴くべきポイントでもある。
昨夜8chの報道番組でやっていた、石原都知事と橋本大阪市長の対談は、さほど核心にふみこんだ内容とは言えず、やっぱり民放バラエティーではこんなところまでしか出せないのだろうと、たなはだ物足りないおもいに拍子抜けした。
もっとも、おれはこの二人の言動にはとくに賛成の立場ではない。
ただたんに“ものいい”がおもしろいからという興味本位で見ている。政治的な見解は一歩も二歩も引いた目線でみるクセが身についているし。
とは言っても、中には共感できる部分もあった。
例えば、石原氏が最近再三言っている“今の日本人は我欲にまみれている”ということはおれも同じように考えていることだ。
その他の内容もどこかで聞いたものだから、さして目新しくはない。
しかも議論のほとんどがカットされているにきまっていて、肝心のおもしろいところは放送されていないだろう。
こういう放送されない部分がいちばんおもしろいのだけど、放送されないのだからおれたち一般視聴者は知ることができない。
“TVで放送できる境目”というのは実はそれほど大きくない。
当たり障りのない内容でないと、抗議をうけ社会的物議をかもし出すから、局としては尻込みする。必然、報道とはなんぞや?となるし、そんなものがおもしろいわけがない。
この点、ラジオの方がはるかに自由にものを言っているからおもしろい。
よくそんなことが言えるな、というような過激でゆるい“ものいい”をラジオではよく耳にするので、こっちのほうがだんぜん楽しい。
■と、ぜんぜん題名と違うマクラになったが、本題は短い。
シューベルトのピアノソナタをこの週末は聴いていた。ピアノニストはアンスネス。後期ソナタ集。
第19番の終楽章は内田光子さんの演奏で親しんできたが、こういうタランテラ的、舞踏的躍動に満ちたシューベルトというのは、彼の最良の持ち味の一つだ。
ほんとにシューベルトという作曲家は、天使のような無垢でうつくしい音楽を書くとともに、こういう悪魔的な死の音楽においても素晴らしいものをもっている。
ひたすら死に向かって失踪していく避けがたい運命を背負った男。この音楽のイメージは女というより男だ。
けっつまずきながら、そのさきに見えるどす黒い光は死とわかっているのに、走っていくことをやめない。そんな焦燥感に満ちている。
それと第20番のニ楽章。この寂しさったらたまらんね。いいですわ。
シューベルトはいまいちばんおれに合う音楽かもしれない。
しかもこのアンスネスの演奏がとても素晴らしく、明確にシューベルトのメッセージが伝わってくるように思えるのだ。
それとともにストラヴィンスキーの春の祭典。
なんじゃい、シューベルトとぜんぜん違うやん!!という激しさの極みの音楽も。
これをダニエル・ハーディング指揮ニューヨーク・フィルハーモニックでネットから聴いたが、これも良かった。
この前の週に同じコンビでマーラーの交響曲第10番(クック版)も聴いたが、それは金管群の大きすぎる絶叫がやたらと耳について、いまひとつだった。解釈がよかっただけに、ここは残念。
しかしこのストラヴィンスキーでは、金管の炸裂が曲にあっているせいか、違和感はない。
この曲は、激しい不協和音の応酬など原始的イメージがつきまとっているが、実際は室内楽的な静かなシーンも多い。
“不気味な静けさ”を出せているか、ここがおれの聴くべきポイントでもある。