■本を読むとき、おもに小説の類だけど、そこに書かれている描写をできるだけ映像としてイメージしながら読むと、長い間覚えていられるものかもしれない。

いま再読している藤沢周平さんの“本所しぐれ町物語”のなかで覚えていたのは、ほんの少しのエピソードしかなかった。

記憶ではこの本は数ある藤沢さんの市井短編の中でも特におもしろいものとして残っている。

にもかかわらずほとんど忘れてしまっているってのは、どんな記憶力なんじゃ?と自分で呆れてしまった。

その前に読んだ角田光代さんの“ツリーハウス”は読んでいてかなりイメージが湧いていたので、しばらくは忘れてしまうなんてことはないと自信をもっている。

とにかく、本を読むときには、できるだけ情景を頭のなかで作って読み進めようとおもう。

せっかくの素晴らしい物語はいつまでも記憶していきたいからね。



■さて、新たに大人の仲間入りとなった二十歳の若者にTVがインタヴューしているのを見て、なんか腑に落ちないというか、こそばゆい不可解さを感じた。

「どんな大人になりたいのか?」という問いに対して、じつに、じつに立派な回答をしていた。

そのどれもが今の日本には必要だと言われている事項ばかりで、おれなんかが真正面から反論できるものじゃない。

大まかに言って、自分たちが将来の日本を立ち直らせてみせます、という決意表明のようにもみえた。

自分自身のことよりも世界や日本の国のことを第一に考えている。立派なもんじゃないか。

おれが二十歳の頃考えていたことはそんなことだったっけ?もっと自分自身のくだらないことだったような気がする。


これはTVに出ていた若者ばかりじゃない。この会社にいる若者も似たようなものだ。

清潔で生真面目。自分の意思とは関係なく決まり事はきちっと守る。文句・不平・悪口は言わない。好青年をみんなが地でいっている。

うーん、どうなんでしょう。

間違ってはいないけど、どこか違うんじゃないか、という気がしてくる。


では好青年の反対で、みんなろくでもない愚連隊の放蕩者になればいいのか?

社会に文句ばっかり言ってまったく動こうとしないロクデナシだったら腑に落ちるというのか?

まあ、それは極端な比較だからそれも“NO”ということになるが、でも、なんだかそっちの方がわかりあえる気がしてくる。


あまりに真っ直ぐすぎて、若者自身もそれしか人生を生きる術を知らないだろうから疑問を持つもなにもない。

しかも現代の若者社会は同調主義が蔓延しているから、周囲の仲間のほとんどが同類になってしまう。

一匹のゾンビが発生すると周囲のほとんどのまともな人間がゾンビになってしまうように。


多様性が極端に少ない。

“そうしなきゃいけない”という偏狭な風潮に毒されているといってもいいかもしれない。

人間なんだからどんな優れた社会にも不満があり文句のひとつでも言うのが自然なことだとおもう。

それを踏まえて前に進もうとする“立派なこと”を口走るのならまだわかる。

負の側面がなく、ひたすらただ明るく前向きという姿勢が、どっかで無理をしているようなぎこちなさを抱えているように映る。

それがおれの違和感かもしれない。


いつも思うけど、自然でいい。どんな形になろうが、人間、自然なのがいい。

その結果ワルイ人間になろうともそれで仕方がない。その人がそういう役割なのだ。

みんなが良い人間ばかりの社会なんてのは、おかしい。

サバンナにライオンがいないとガゼルだらけになってしまう。

表面上ではニコニコ・ハキハキしているが、ほんとうの心の底では憤懣が渦巻いているとしたら、その人は嘘の人生を生きることになりやしないか。



しかしこの国の上層部はずっとそれを狙っていた。

文句を言わない従順で生産性の高い人間をたくさんつくりあげることが、上層部のいちばんの狙いなのだから、うまくいっている、とほくそ笑んでいるに違いない。

上等な葉巻をくわえ、コニャックを手のひらでころし、もちろんそいつの膝のうえには上等そうな猫があくびをかいて寝ている。