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■家電量販店に行くとメディア機器の技術進歩と低価格化のあまりのすさまじさに驚く。
なんとハイヴィジョンビデオカメラが2万円台で販売されているのだから目を疑った。
デジカメだって高性能で薄くて安い。いつ買うのが良いのかわかんない。

こういう進歩に対していつも懐疑的にみてしまうのは、これはもうおれの癖だな。
でもあれだぜ、このおそろしく高い映像機器で、人々はいったい何を撮るのだろう。

誰もが優れた内容の映画(映像)を撮るというわけじゃない。
いや、そんな人はだれもいない。せいぜい日常や子どもの運動会とか卒業式とかだろう。
それも貴重な映像だしまったく否定しない。

おれが気になるのは、ハード面はどんどん進化していき、それと反比例するかのようにソフト面では後退していくという奇妙な構図だ。

デジカメはフィルムじゃないから失敗したっていくらでもタダで取り直しがきく。
シャッターを押す緊張も集中もフィルムのときより劣る。
集中力が萎えてくると、それなりのものしか撮れないものだ。

見た目はきれいだけど画面(写真)から訴えかけてくるパワーが感じられない。
肝心の語るべき中身が機器に追いつかない、そればかりか空洞化に陥っていく。

それは未来的ともいえるが、考えてみればつまらないことだし、そら恐ろしい気もする。


■音楽ソフトにも似たような印象がある。
フルトヴェングラーの録音をまたよく聴くようになった。
彼の演奏には興奮と感動がつまっている。音楽とはこういうものだな、と納得しながら聴いている。

でも録音状態はわるい。ノイズはひどいし、音がはっきりとしない、くぐもって聴こえる。
各楽器のバランスもよくない。
やたら金管とティンパニが目立っているのはマイク位置が適正でないため、実演で聴くのとかなり違うんじゃないのか?と思ったりする。

でもその演奏に感動するのは、フルトヴェングラーの功績はもちろん筆頭にくるけども、マイクが当時の雰囲気をうまく捉えていたからじゃないだろうか。
音自体は不鮮明だが、雰囲気という漠然とした“何か”を当時のマイクはひろった。

一方で現代の最新技術では音は鮮明に聴こえるが、音楽の雰囲気という“何か”を捉えることができない。

鮮明さを獲得した代償で、音楽にとって大切な“何か”を失うことになった、

そういう仮説を考え、おもっている。