■いま、こうしてこの映画を観終わってみると、初めて観たときのインパクトは減っている分、じっくりと作品が身にしみこんでくるような“理解”がある。
初めてのときはあまりの衝撃と興奮であっという間に終わってしまったものだから。

この作品にはどこをとってもフェリー二節が炸裂していて、映画のなかの映画を体験しているという喜びの連続だ。

確固としたストーリーや解釈を求めるのはお門違いだろう。監督はそんなことを念頭に撮っているわけではなさそうだ。

それにしても巨大な作品だ。こんなにも摩訶不思議な世界はフェリーニしか撮れない。

近代化がつき進む真新しい街。半端な工事途中の部屋(水浸しの床、ペンキ塗りたての壁)。銀バエのように群がるパパラッチ。グラマラスな女たち(フェリーニ映画にはえてして豊満な女性が登場する)。レストランでの奇妙な見世物。女神を見たと言う子どもたちと救いを求める群衆との騒動。
マルチェッロの人生と苦悩、そして、親友スタンリーの心中による変化。

いろんなテーマが渾然一体となってカーニバルのように作品は進行する。

ニーノ・ロータによるムードと茶目っ気に満ちた素晴らしい音楽がないとこの作品もここまでならなかった。

現実よりも現実的でありながら、夢でも見ているようなふわふわと浮遊している感じだ。

映画の枠すら超える表現の幅で、フェリーニの想像力は一体どうなっているのだろうと、ただ見上げるしかない。

よくこの作品の批評として、“上流階級の放蕩の様を辛らつに批判”などと書かれているが、そう簡単でもない。
もっと広い視点で上流階級の荒唐無稽で破天荒を極まりない“遊び”を監督は見ている。批判するとともに共感もしている。とてもおもしろがっている。

最後のパーティーでのマルチェッロの壊れ。
監督は彼らに手拍子を打たせ、あるリズムを作り出す。ここもかなり印象的だ。

なぜ手拍子?というより「こういうの、おもしろい!」ということでね。


一点残念なのはこの上映はニュープリントだとおもっていたけど、画面は灰色に焼けてしまっていること。それとも1960年当時のイタリア映画はこれが標準の画像だったのだろうか。