■日本の人と話をしていると「アイツは○○大学出だからさ」とか出身学校をとかく気にしているようだ。

それは社会に出ても同じことで、「わたしは○○社に勤務しています」なんて、個人そのものよりもその所属している組織でもって人を判断している。

言う方もおれはここに居る人間だからどうぞよろしく、などという暗黙の了解を求めてくる。


これがおれには不思議に映るね。不思議でもあるし弱いなぁともおもう。


己の存在を組織に染込ませ、まるで身を匿ってもらっているようで、脆弱だ。

しかしその傾向があまりに強くなると、組織から外れることが許されないという不自由さが生じるのだけど、それには大抵の人が我慢する。



この季節はそろそろ忘年会の話題が聞こえてくる。まあ、まだマスコミが先走って騒いでいる程度だけど、なんとも気の早いことだ。

例によっておれの忘年会は今年もない。そういう銘打って組織人として酒を飲むのは今やポリシーに反することになっているから、うまく断っていくのだ。

出身大学のOB会とやらも定期的に開催しているけど、これも、なんで狭い会社のなかでさらに狭い出身大学の連中だけで、こそっと集まって酒を飲まにゃーならんのだ、とその会のチマチマした開催理由に息苦しさを感じて、これも十数年来出ていない。


言ってしまえば、大学にも会社にも誇りというものをもっていないのだ。

学校は簡単に言えば勉強をしにいくだけ、まあ、そこでは貴重な友人もたくさん出来たのだけど、卒業してしまえば、大学なんぞもうなんでもない存在でしかない。

会社にしても、働いて給料をもらう、ただそれだけ。そこにはなんら崇高な意識もなく、尊大な使命感もなく、なんだかアルバイトと変わらないような、まったく単純な意識でしかないのだ。

この前、上との面談でこの辺の話をしたら、また困っていたね(笑)


“社会人として”という言葉は嫌いだ。よくそういうことを上の人達は言うんだけど、本当にこの人は嘘偽りなく言っているのだろうか?と相手の目の中を覗き込んでしまったりする。ウソか本当かははっきり読み取れないが、どちらかといえば本当にそうおもっているようだ。


そういうおれもクジに負けて、組合の長をやらされている。

その会議の席で、若い人達の、にこやかに、はきはきと、言語明瞭に、楽しそうに説明する様子を見るのだけど、なんでこの人はこんなにも明るい顔をしているのか?となぜか居心地の悪い思いで見ている(しかし出来るだけ協力している)。

そう、どこか偽善的に見えるのだ。

そうやって作為的にでも明るい自分を造り声高らかに発言することが必要だと信じきっている。しかもそこに座っている全員が。

ここは違う惑星か?と疑りたくなるわ(笑)

もっと自然でいい。

つまらんかったらつまらん顔していいんだし、笑いたければ大笑いすればいい。そのときの感情のままでいいのだ。どんな組織のなかにいようとも。



今日は午後からフリーマン。神宮外苑のイチョウでも見てこようとおもう。