
こうした題目のためか、全体的にしっとりとしたプログラムだった。
モーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第二楽章。
ピアノソロがあの悲しげな旋律をポロンポロンとつまびきだす。そのテンポはかなり遅い。震災の犠牲者を追悼するためなのだから一層の悲愴感をもって演奏する。
オーケストラも抑えた伴奏であるが、木管は意外と目立つ。これはもうちっとエレガントでもいいのではないか、とおもう。
その後、拍手なしで全員立ち上がり一分間の黙祷。
さて、次はマーラーの歌曲。不思議な子供の角笛から三曲。
マティアス・ゲルネさんは立派な体格をもつ方で、言っては悪いが、まるで蛙が二本足で立って身体を揺らしながら歌っているかのようだった。
しかし歌声はほの暗くマーラーによく合う。
またそのときのオーケストラの美しさ!ああ、これがマーラーなんだ・・・と一気に百年前の世紀末のウィーンに引き戻された。そうそうこのサウンドだ。ライナー・キュッヒルさんを先頭とした弦楽奏者たちの、あのなんともいえない濃密な、ある意味息苦しくなるほどのリリック(?)な響き。そしてマーラー特有の木管楽器群のお茶目な遊戯。
それらが一体となってうっとりと酔いしれた。
作曲家の特徴というのは少しでもその音楽を聴けば判然とするものだ。
モーツァルトはモーツァルトの、マーラーはマーラーの味をそれぞれがしっかりと持っていて、どのパートでもすぐにわかる。
楽器の使い方、歌いまわし方、詳しいことは知らないから書けないが、作家の特異性というのは創造することにおいて最も大切なことではないか。
己の道を究める。己の内面にある叫びを探求し、音符に文章に絵画として世に誕生させる。そこには客観性や大衆性はなく、ただひたすら利己的に自分だけの世界を展開させる。そういうことじゃないのか、と聴きながらおもったりした。
マーラーの三曲目は“原光”という交響曲第二番でも歌われる歌曲もあって、これがおれは非常に好きなんだけど、男性歌手で聴くのははじめてだった。これもなかなか味があって堪能した。
ここでもオーケストラのうつくしさに息をのんだ。特に最後のスーッと消え入る終わり方。ピアニッシモが最後の瞬間までよく聴こえて、それも大変満足した。
メインは、シューベルトの交響曲第七番“未完成”。
こちらはひたすらうつくしい演奏だった。ただ、おれのなかのシューベルトとは違った。これが少し物足りない印象をあたえた。
特に第二楽章は、オーボエによる“死んでしまいそうな寂しさ”や、巨大な運命を目の当たりにしても闘う激しい怒り、といったのを期待していたが、そういう解釈ではない。
あくまで控えで、うつくしい旋律を意識したものだった。
牙をむく野性的で危険なウィーン・フィルは、この日は聴けなかった。
それでもエッシェンバッハさんは(過去にラジオでマーラーを聴いたことがあるが)、思い入れたっぷりにオケを鳴らす。テンポもゆっくりだ。合奏のときは音が濁らないようにコンマスが弾くのを極力控えて調整しているようなシーンも見れた。
しかしこの日の意図は追悼だ。そういう意図で聴けば、こういう解釈でもいいのかもしれない。
と書いてもウィーン・フィルをたっぷりと味わえた満足感はあるのです。
このすばらしい余韻はまだ日が高いアークヒルズ(午後一時)に出ても失いたくなかったので、いつものどこくコンビニでルービーを買い、飲みながら新橋まで歩いたのだ。
天気がよくこれも最高の気分になれた。
来年もまたウィーン・フィルだけは行こうっと^^