■通勤時にわれ知らずにモノを落とした人や、気分が悪くうずくまっている人に対をたまに見かける。こんなときスッと声をかけづらい環境というのが、この日本人であるという習性になっている。

なんなんだろうね、このぎこちなさは。

こういうのを見過ごすことはおれの意に反するから声をかけるが、そんなとき一呼吸おいてしまうのだ。周囲の名も知れぬ連中の無表情と冷徹な目線というか、そういうどうでもいいことを意識してしまう。

でもそんなのは面倒だしアホらしいので、いっそのことおれが日本人という枠から出てしまえば(日本人を辞退してしまえば)、そうした目線はどうでよくなって、自分の考えでなんでもスッと行動できるようになるはずで、その理由から日本人を辞めようとおもう。

しかしこのことは常に意識しているはずだった。今回そう思ったという事はいつのまにか戻されていたんだろう。

だからここは、あらためて意識しなおそう。おれは日本人であることを可能な限りやめる、と。

かといってどこぞの国の人間を模倣するというわけでもない。

どこぞの国にもそれなりの形式や習慣があり、その枠は慣れてしまえば自由でも新鮮でもなくやはり固っ苦しいものだろう。

だからどこにも属さない。拠り所をもたない(とはいっても人間はぽつんと一人で居ることは難しいからおのずとどこかの国民性を意識してしまうのだろうが)



それにしても日本にいるとアメリカを意識させられる。

アメリカに敗戦したからなのか、アメリカという国がデカすぎるからなのか分からないが、日常生活にアメリカという国は結構入り込んでいる。

そのアメリカの代表的オーケストラのニューヨーク・フィルハーモニックがNY同時多発テロ10年のアニバーサリーコンサートでグスタフ・マーラーの“復活”を演奏した(アラン・キルバート指揮)。これは濃密で気持ちのこもった熱演でなかなかよかった。

この冒頭、アメリカ国家を合唱入りで演奏していた。これはナショナリズムを抑揚させる堂に入った演奏で、アメリカに住んでいないおれまでもなにか胸が熱くなるような想いになったのだ。

またあれはカッコいいんだよね。小太鼓の連打から続くお馴染みの金管楽器の大合奏。これが君が代ならなんかしんみりしちゃうんだけど、この曲だと、「よーし!あいつらをやっつけてやるぞ!オーマイガッ!」という戦闘モードなるから国歌もいろいろだな。


それとこれだけグローバル化が進んでいる世界なのだから各国別の国家だけじゃなく、世界共通の歌とかつくったらどうだろう。

世界の新鋭作曲家達にコンペで競ってもらい、世界の人々による直接投票で決める。

ひとつのことを世界中の市民で決めることなんて今までなかっただろうから画期的なイベントにもなる。


なんだかめずらしく前向きな記事でおもしろくないわな(笑)

この一週間は、久しぶりにサントリーホールに行ったり、前向きじゃない友達と飲んだりするからいつもとテンションが違うのかもね。