■“志ん朝復活”というCDを聴いている。

落語ど素人のおれは父である志ん生ばかりがいいと思いこみ、息子である志ん朝について聴く前から軽んじていたふしがある。

二代目は一代目を越えられない。映画で言うパート2にはロクなものがない(ゴットファーザーとターミネーターは除く)という法則を勝手にもちだしていた(そうそうクライバーも例外だ)。

いやあ、これ、すごいよ。

ものすごい引き込まれる。おもしろい。テンポだってすばらしい。

なかでも声がいい。あの野太くよくとおる声。時折ずんとくる低音域。聞き惚れる。

落語家さんの声は総じてすばらしい。

声が商売だからいいに決まっているといえばそうだけど、声のいい人はいいね。



この前NHKで“懐かしのPOPS”みたいな番組で渡辺美里さんが歌っていた。

張りのある声でいかにも楽しそうに歌っているのを見て、あー、いいな、とおもった。

そんで昨日会社帰りにカラオケに寄って“悲しいね”を歌った。

これはいい歌でさ、昔を思いだしてついうるっときちゃう。でもサビが高すぎて到底歌えるしろもんじゃない。

仕方なしにオクターブ下げて歌うんだけど、そうすっとわけわかんないデュエットみたいで気持ちわるい。

彼女の歌を歌うのはむずかしいわ。



■最近は電車でも平べったいケイタイを使う奴が多い。

なにがいいんだか、きっと彼らにとってすごく便利でおもしろいはずだ。みんな食い入るように画面を見ている。でもあんなのは無関心社会促進&非人間化マシーンでしかない。

ちっちゃい画面の世界だけで満足してしまい、あとはめんどくさくなってなんにもしたくなくなる。ますます自分の殻に閉じこもる。それでいいとおもいこむ。

文明はかんたんな算数だとおもう。便利がひとつ生まれれば、古いモンのひとつがなくなる。こういう真理はあるんじゃないかな。なんでもかんでも手に入れられるほど都合よくはできていない。

資本主義はこういう検証はばかばかしいからしないで、どんどん便利を生み出す。そんで人間関係がうまくないなんて問題視するもんだから、おかしなもんだ。

おれは最後までこの平べったい奴はもちたくないね。いまのケイタイだってほんとはいらない。