
ヴィスコンティ作品は案外観ていなくて、ちゃんと観たのは『ベニスに死す』くらいであった。
『山猫』は数年前にTVで観たけど、TVの乏しい画面では迫力が伝わらないためか途中で飽きて、やめてしまった(3時間超の長編であるからそれも苦痛)。
当時の雰囲気を可能な限り忠実に再現し、豪華絢爛たる映像美を撮り続ける大監督作品だが必ずしも「素晴らしかった!」とはならないし、ネームバリューだけで評価するなんてあってはならない。
ここは冷静に観ていこう。とは言ってもかなり期待しているけど。
音楽はともにニーノ・ロータ。WMにムーティ指揮ウィーン・フィル定期での『山猫』組曲も入れたので、準備は整った(この演奏、ムーティが実に劇的かつロマンチックに歌いあげている)。
■さて、先日の上司面談にて。
その人「ぼぶはコミュニケーションがなぁ・・・」と苦い顔をした。
というのは会社の飲み会のことだが、最近おれはまったく出なくなっていたからだ、
この機会だから自分の考えを知ってもらおうと(分かってもらおうとは思わない)説明した(挑戦的態度ではない、あくまでフレンドリーに)
飲み会を重要なコミュニケーションの場として多くの会社人が位置づけている(これを読むほとんどの人も)が、おれはそうは思わないのだ(歓送迎会は可能な限り出るようにしている)。
コミュニケーションなんてのは就業時間内だけで事足りることと考えていて、その範囲で努力している。努力というかみんなと友好な関係を築いている(と思っている)
ただでさえ濃密にならざるをえない会社の連中との付き合いは、精神的にも勤務時間内だけで精一杯だ(合うわけでもない同じ人間と長時間いることは苦痛)。
その上さらに同じ協調という空気の中みんなで酒を飲むという状況はおれとしては“やり過ぎ”で、おかしい。必要性を感じない。
それが好きで出席したいのなら全然いい、そういう連中だけで集まって飲んでくれ。それだけだ。
問題のもう一つは、そう考えないおれのようなヤツまで巻き込むことにある。
嫌いなのにそんな飲み会なんかに出されてしまえば、ただただ我慢しなければならず、反対にコミュニケーションは悪化する。
でも周りの連中はそうは見ない。
出席しないことを異端視し、“みんな一緒に参加”が最善だと信じて疑わないから性質が悪い。
“真人間”に矯正しようとしてくる。“時計じかけ”のアレックスの気分だ。
面接のときに、おれ「一度だけ様子をみようと飲み会に参加したけどやっぱり駄目でした。あまりの一体感の濃密な空気に窒息しそうになり、いたたまれなくなって途中でブッチしてしまいました。あれではまるでカルト教団の集会みたいですよ。申し訳ないですが今後は出ることはないと思うのでご理解のほどをお願いします」と和やかに言った。
「うーん・・・」って困っていたね(笑)
そこで、おれ「なにも○○さんを困られたくはないんですよ。どんな人が上にきても同じことを言うだけですから」って。
嫌なヤツだねー!おれ。
コミュニケーションなんてなにもやらないのが一番いいとおもっている。作為的はダメ。
近寄ったり離れたりそれぞれの感覚で自然にやるのが、ほどいい距離感を保持できるものだ。
それを無理にくっ付けようとするから反発したくなる、あたりまえの反応だとおもうのだがそれがみんなは分からない。
これは日本全土を覆う現象で、幼稚園の頃からそのように教え込まれ(教える方もだが)会社に入っても当然のように高い“コミュニケーション力”を求められる。
でもなぜ、こうも求められるのか。
会社の存続や社会生活の安定とか言うのかもしれない。でもそんなことはない。根拠などなにもないのだ。
別にこれほどベタベタな関係でくっつきあわなくても社会は崩壊なんかしない。
その辺のサジ加減が分からないで強化しようとするから駄目なんだ。
ほどほどでいい、ということが今の世の中なかなかない。
一端決められればさらにそれを磨き上げ、より強靭にしていってしまう。
だからテキトーがいいんだよ。