■台風が近づいているため風雨が強くなってきている。

こんな天気で時間がたっぷりあるときはなにをするのがいいのか。


さっきまでフランツ・カフカの『審判』という小説を読んでいたが、ちょっと休憩ってことでこれを書いている。

この小説はフィクションで舞台設定もカフカが想像したものなのだろう。かなり不思議な物語で、まるで夢でも見ているような現実感のなさだ。

主人公Kが賃貸アパートで気分が悪くなり広報係と若い女の二人に抱えられるようにして歩いているシーンだ。Kが急に気分が悪くなって立ち上がれなくなるのなんて、いかにも夢で見そうなことじゃないか。

カフカはこれをどうやって書いたのだろうか。
書きながら物語を展開させていったのか、それとももともと初めからの計算のうちで書いていったのか。

小説を読む時いつもそういうことを考えてしまう。

この長大な台詞にしても日本の作家ではなかなかお目にかかることはない。欧州の作家が書く台詞はえてしてこのように長い。

長い台詞を書こうとして書くのでなく、自然と長くなるのだろう。

おそらく普段の生活で人と話すときでも延々と考えを述べたりするからではないか。

電車で外人同士が話しているときでもひっきりになしに話しているのを見かける。

我々とは違うなぁと思ってみている。
だいたい我々が電車で話すことといえば多少なりとも周囲を気にしてしまうものだし、それほど話すべき話題があるものでもないから、ボソボソっと話す程度でしかない。

習慣が違うといえばそれまでだけど、その習慣が違う人が書いた小説を読むのは、“異”なるものに接しているという意識がある。

またその物語がおもしろいと自分が感じるものでなければ読み続けることは苦痛になる。

または“異”なるものと接することへの関心・興味があれば読み続けることはできる。


などとどうでもいいことを書くのは意外とおもしろい。
自分との対話みたいでいろんな考えが出てくるものだ。



そういえば、最近このブログは誰が読んでくれているのだろうか?

コメントや履歴に残る常連の方々は分かるのだけど、あとはまったく皆目見当がつかない。

いっとき大学時代の友人や会社をやめていった友人には教えてあるから、たまに覗いてくれているとは思うが、あとは読者が変わったような気がする。これもただそんな気がするというだけで本当のところは分からないのだけど。



さて本の話題を続けよう。

本は買わないで図書館で借りることが多くなった。

これは金銭的な理由と、だいたいは一度しか読まないで家にどんどん本が溜まるのを避けるため、だからだ。

この前買ったモーツァルト辞典のようなものは何度もページを開くからそういうのは購入するが。

そんで借りた本でおもしろいのは酒飲みの言い訳という(だったかな)ちくま文庫。

それを読むと今の酒場がおもしろくないのがよく分かる。

女給さん(こういう言い方をしている)の質が悪くなったのは接待と男に原因があるというのは頷ける。

そういう場所で働いている女の人の中には「それで客商売なのか?」とこっちが呆れてしまう人がいる。

ちやほやする人にはいい顔するが、そうでない人には”フン!”というあまりに無機質な扱いで、おもしろくもなんともない。

おれもそういう扱いをされ、時間がくるまでウォークマン聴いて新聞を読んでいたことがあった。これじゃあ外で飲んでいるのと変わらない(笑)。


これは一般人でもおんなじ。

ちやほやもてはやさせる女の人の中には変わってしまう人も出てくる。

「昔はいい子だったのに」などとしみじみ回顧されてもどうしようもない。

こういう事例はそこらじゅうに転がっている。

これも媚びるオトコ連中が悪いのです。