
ニコラウス・アーノンクール、最後の来日公演の1つに行ってきました。
おもえば、彼をことさら意識しはじめたのは、4年前のウィーン・フィルとの来日公演。
あれほど“野蛮なベートーヴェン”が存在したことは、とてもショッキングな記憶として今でも鮮明だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshiakibeethoven/43557993.html
びっくりしたとともに、本当のベートーヴェンの姿とはこういうものなんじゃないのか、と開眼させられた。
以来、アーノンクールの来日をずっと待っていた(実現の可能性は低かった。なにしろ彼は大の飛行機嫌いで、遠方への演奏旅行は大変なリスクがかかるから)。
そこへ、今年になって再びアーノンクールがやってくるというので、曲目に関係なくこれは絶対に聴きにいこうと決めていた。
ヨーゼフ・ハイドン作曲のオラトリオは、僕にとってはまったく馴染みがない曲で、予習をしはじめはとっつきにくかった。
しかし、徐々に身体に馴れていった。
バーンスタインとバイエルン放送響の演奏よりかは、当のアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏の方がおもしろく、こちらの方に馴染んでいった。
そして、実演。
いつもの桟敷席から彼の指揮ぶりのすべてが見える。
一言でいえば、“あらゆる意味でこれほど充実した演奏会はあまり記憶にない”ということだった。
オケ、合唱、ソリスト、のすべてがとても洗練された充実度で全力を発揮する。
アーノンクールの指揮に敏感に反応する。
フォルテを要求するときの癇癪めいた動作。
あのフォルテはザンッ!と爆発し、スーッと透明になっていく。
それがとてもスリリングですごい音なんだけど、とても心地いい。
この心地よさは心が芯から満足しているという心地よさだろう。
日常では決して得ることのできない、充足感。
またはその反対の美しく透明なピアニッシモ。
アーノルド・シェーンベルグ合奏団の豊かさも相変わらずよかった。
以前アバド指揮ベルリン・フィルでベートーヴェンの『第九』をここで聴いたとき、この合唱団だけがよかった。
オーケストラも繊細だが線の太い響きを聴かせる。
あの少人数で大ホールをなんの不満もなく鳴らせるというのは、聴いていると当たりまえのように感じていたけど、カンタンなことじゃない。
古典楽器はともすれば物足りなく思うことがあったけど、彼らはさすがに違う。
弦は重厚さではすさまじく、木管楽器郡も暖かさも際立っていて、感動した。
それにしてもこの曲をしっかり予習していってよかった。
はじめて聴くと、はやり戸惑っただろうし、“聴きどころ”をちゃんと楽しめなかったはず。
とっつきやすく美しい旋律の多い曲だけど、深い意味という部分ではすぐには理解できない。
実演を聴いた僕でもまだこの曲の理解度はまだまだだ。
それでもハイドンがこの曲に賭けた意気込みと挑戦は確かに感じることができた。
ハイドンの新しい一面。
偉大な芸術家はえてして、筆が早い。
よくぞこんなすごい曲を書いたものだと、失礼ながら感心した。
モーツァルトのすごさも年々少しずつだけど、自分なりに見えてくる(リンツ交響曲をたった四日で書き上げるなんて!)
ちょっと話がずれました(笑)
まあとにかく、あそこまで元気なアーノンクールがこれで見納めになるというのがなんとも寂しい。
しかし、これで最後とちゃんと言うことが、今までの演奏家ではいなかった。
いきなり亡くなって、あれが最後の公演だったのか!と振り返るのがフツーである。
それを今回のように宣言するのが、彼の境遇を表しているし、性格の一面が出ているようで、おもしろい。
会場を出ると、台風はどこへいったのやら、雨はあがっていた。
コンビニでいつものようにルービー(今回はエビスビールです!)を買い、国会議事堂前駅へ向う道すがら飲む。
飲みながら、さっきまでのコンサートのことを想い、一人の時をゆったりとひたる。
この、自由でこのうえない幸福に満たされている瞬間、とてもすばらしい。