■岩波から出ている向田邦子さんの作品集『あ・うん』巻末に、手書きのオリジナル脚本が載っている。

まだ最終校でないためか、いろんな書き込みがあり、文字も本人にしか読めないような自由奔放なもの。

作家は、まさかこうして後世の人間が見ようとは思わないから、それこそ思いのままの書きなぐりだ。

こういうものには、本人の作品に対する道筋や格闘の跡が見られるので、とても興味深いうえに、たいへん勉強になる。


これはベートーヴェンが作曲の上で苦闘した初期の楽譜と同じもの。

作家の血が染み付いている。

こういうものを見るといつもおもうのは、おれは型にばかり気にしている場合じゃない、という反省。

このペンがよくない。ノートじゃなく原稿用紙の方が気分がのるんじゃないのか。おれの字は汚いなぁもっとちゃんと書かなくっちゃ。

とか、そんなことに気が散ってしまい、肝心の作品を深めることが二の次になってしまったりする。

恥も外聞もなく、ただただ己の内面と対峙すればよいのだ!と、それは知っていても、どうも怠けてしまう。

この夏は暑さのせいにしてルービーばかり飲む生活で、すっかりだらけてしまった。

あかんね。


オリジナルスコアといえば、大学時代に専攻した教科で“音楽を聴く授業”という願ってもない授業があった。

音大でもないのにクラシック好きな学生なんて珍しいから、その先生とは当然のように親しくなって、先生の家に何度かおじゃまするようになった。

年齢はおじいちゃんと孫というほど離れていた。

古い家屋の一階に音楽部屋があって、たいそうな音響設備がある。

そこで、いろんなCDを聴きながら音楽の話をとことんする。

先生はブルーノ・ワルターが好きで、コロンビア交響楽団との演奏をよくかけてくれた。

おれもおすすめのCD(バーンスタイン指揮NY・フィルの“悲愴”等)を持っていった。

とてもすばらしい時間をすごした。いや、すばらしいのだけど、共通の趣味をもった男2人が先生も生徒もなく、単に趣味に興じているというさっぱりしたものだった。


ある日、二人で音楽を聴いているところに郵便物が届いた。

奥さんからそれを聞かされた先生は目の色を変えた。

オーストリアの出版社からようやく届いたモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の作曲家本人による手書きスコア(写し版、全曲、分厚い)

先生はさっそく封を解いて食い入るように見ていたのを覚えている。まるでそこにおれがいるのを忘れるほどの興奮ぶりだった。

その貴重な資料(作曲家の書き込みもある)を見ても当時のおれはそれが理解できないでいた。

よく先生から「スコアは読めなくても眺めるだけでおもしろいからやってみれば」と言われていた。

疑心半疑だった。当然よめないし、ワケわからないからおもしろいわけがない、と。

でも、なんかのきっかけで当時いちばん好きだったベートーヴェンの第7を買ってみた。

はじめは追えない。すぐに迷子になる。でもおもしろい。何度も繰りかえし追いかけることによりコツがわかってくる。

聴いているだけでは見えない曲の構成や、作曲家の意図も勝手な解釈ではあるけども見えてくる。

そうなるといろいろなスコアを買い漁るようになり、けっこうな冊数になった。

今でも読めない。ちゃんと音楽の勉強をしていないから。それでも都度発見があるからやめられない。

いっちょまえに自分の解釈を赤鉛筆で書き込んだりもしている。

そのうち指揮者になったときに役立つことだろうな。


じゃんじゃん