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●机のうえの電話(内線)が鳴る。

会社の後輩「今日、一緒に帰りませんか?」。

こりゃなんか相談でもあるな。


●総武線・この辺の駅・ホームのベンチ
ルービー飲みつつ話をきく。社内での人間関係の障害、それと業務そのものに対する疑問をもっているという。

こやつはいわゆる会社人間ではない。

べったりと同じ会社同士だけでつるまず、それでいて仕事への意欲は人一倍ある。

しかし、今そのヤル気が空回りしている。

さらにその他でもいろんな悩みを抱えており、自分はどこに向かっていけばいいものか、が見えないといった状態なのだ。


まともな人間なら誰しもがあたる人生の壁。


アタリメをかじりつつおれなりのアドバイスを言うけど、最終的な答えは「自分の中にしかない」のだよ。

冷たいようだけど、自分で悩んで考え抜いてある解答を見つけないと、そこから脱することはできない。

ただしそのためのサポートはする。


■その後、本の話題になった。

こういうときに是非とも読んでもらいたい本があるから、翌日もってくると言った。

ふだんは本を人に薦めるなどという“おせっかい”はなかなかしないのだが、このときは違った。

岡本太郎さん『自分の中に毒を持て』

翌日電車んなかで読んでいたら、読んでいるうちにどんどん燃えてきた。

抜けおちていた大切な考えを突きつけられて、電車にゆれながら目が覚める思いだった。


そして翌日、六本木の本屋さんでたまたま目にした太郎さんの『今日の芸術』を手に取ったら、そこにもあまりにも強い言葉があふれており、うれしくなって即購入した。


芸術の概念はまさに太郎さんの考えに共感する。

「人間にとって水や空気と同じように音楽は必要不可欠なものなのです」これはサイモン・ラトルの言葉だけど、太郎さんも芸術について同じことをもう50年以上も前に言っている。

それもかなり解りやすく具体的に。

今の人間が人間じゃないのは、この部分がごっそりと抜け落ちているからだろう。

全体が芸術なんて二の次三の次と考えてそれとは無縁の日々をおくっている。

または、“崇高なもの”と勘違いしてしまい、自ら真正面からとらえようとしない。

恐ろしいのはこれからどんどんこの傾向が強まっていくということ。

世の中、残念ながら時代の流れには逆らえない。

人の存在価値はじゃんじゃん薄くなり、同時に生きる喜びや強さはますます弱められていく。


そうかといってあきらめるのはもっとも愚かなこと。

いつの時代でもそうであったようにこの流れに闘わなくてはならない。



■先日の新聞記事にこんなのがあった。

「2日、閑散としたドイツ北部のリューゲン島ゼリンのビーチ。気温20度前後とこの時期としては異例の天候に見舞われており、観光客の足が遠のいている。猛暑が続く日本から見ると、ちょっぴりうらやましい?」

この最後の表現「ちょっぴりうらやましい?」・・・

こういう言いたいことに自信のない曖昧な言い回しが、新聞にまでも侵食している。

いまの日本にすっかり蔓延しているこのような主体のぼやけた曖昧表現。

これはどんな場面でも都合がいいけど、結局は自己保身でしかなく、受け取る側はボヤッとしたものしか分からない。

友達間でのメールじゃあるまいし、公共的メディア、ましてや一般新聞が使う言葉としてこれは適切ではない。


かくいうおれも友達とのメールで似たようにグレーな表現をしている。

便利だけど、回答から逃げているようなときや断るときに使う都合のいい言い回し。

相手を傷つけまいとしているようでも、相手は感づいている。

続けていくうち、お互いに小さな心の傷をつけあっている。

それだけでしかない。


最近こういう表現をしている自分に気がつき、イヤになった。

やらないようにしようとおもう。

もっと自然なやりとりでいいのだ。



じゃんじゃん