■おだやかな陽がいっぱいふりそそぐアークカラヤン広場は、しあわせと安らぎにみちていた。
こういうシチュエーションは、生きている喜びをじっくりと実感する。
シナリオ友達と「オーケストラを聴こう!」という企画で、サントリーホールで関西フィルハーモニーを聴いた(5月8日)。
メインのシベリウス『第2』は、なんといっていいか適切な言葉がうかばない、が、とてもとっても素晴らしかった、感動して鳥肌ものだった。
“納得感”が全編にわたっていて、指揮者のこの曲に対する真摯な想いがオーケストラに深いところまで共感・共鳴していて、それを高度なテクニックでホールに響かせていた。
聴いている人の期待感の高さもはじめの一音が鳴った瞬間に音楽に混じって伝わってきて、「これは、名演になるな」と理解した。
北欧の凛とした冷たい空気や広大な土地。そこに生きる暖かく情熱をもった人々。
特に第2楽章にシベリウスの主張のすべてをみた気がした。
作曲の背景はまだ調べていないから分からないけど、なにか巨大な権力か何かに対する焦燥、怒り、無力、激しい抵抗、そういった数々の感情の大きな起伏をそこに聴いた・・・
藤岡さんの指揮はいい意味で分かりやすいし、とても深い。
失礼な話し、安価で初心者にはちょうどいいプログラムだから、とおもって気楽にチケットを取ったのだけど、思わぬ名演に接することができた。
このオーケストラはとてもすばらしい。
指揮者ならずとも奏者にも音楽に対する「もっともっといい音楽を創りたい、聴かせていきたい」という姿勢がうかがえた。
応援したくなる。
シベリウス『第2』は来月もサロネン指揮フィルハーモニア管で聴けるので、ますます楽しみになってきた。
友達から、終演後、指揮者は「なんで何度も行ったり来たりするの?」とか、思わぬ質問はおもしろかった。「そういえばそうだな」って。
みんな、どうだった?これが音楽を作りだすということで、オーケストラ演奏とはこういうことなのだよ。
シナリオ執筆にいつか活かしておくれ。
■そしてその後、千代田線に乗っかって会社の結婚式二次会に向かう。むろんジーンズ。
会場に着いたのがもう終わり近かったので、場はくだけていた。
くだけているけど、さしてみんな酔っているわけでもない。
いくつかの集団に分散して話している。
その集団は仲間うちのよう。会社は会社のもの同士、高校時代の友達もそのなかだけで、といった具合。
積極的に新たなおんなの人に話しかけるおとこもいない。
まあ、いい、時間も短いしじゃんじゃん飲もう、というわけで遅れを取り戻そうとルービー飲み飲み。
主役の二人にそこそこに挨拶とおめでとう、をいい^^;テンションを上げていく。
でも終始「なんだかなぁ・・」という気分は抜けない。
いろんな人と話したんだけど、どうもモヤモヤとした不明瞭な感じ。
このモヤモヤ、その時は分からなくて気持ち悪かったんだけど、こんなことなのかなぁ↓
それは、その場の連中に自己主張があまりないんだ。遠慮しているのか、なにも考えていないからなのか分からないけど、「自分はこうおもう、こう考える」的な言葉がでてこない。
その結果その人自体が見えてこなくて「この人はなんなんだろう?どんな人なのだろうか?」という不明瞭さにつながる。
話していても反応がよわい。手応えがない。
これでは話していても大変になってくる、一方通行で話していてもそれは会話じゃないし。
若者の傾向とは言いたくないが、最近はそんな感じなんですかね。
あまりに仲間内な場と空気感に「やれやれ・・」と場所を変えたくなった。
■さて、『でぶくろをかいに』
これは母ぎつねと子ぎつねのおはなし。
雪のふる晩、あまりの寒さに手が赤くなってしまった子ぎつね。
かわいそうにおもった母ぎつねが、人間のところで、「てぶくろを買いに行っておいで」という。
母ぎつねは昔人間に酷い目にあったので、怖くて自分はいけない、だから坊や、ひとりで行っておいで、と(ちょっと腑に落ちないのだが^^:)。
魔法で右手だけを人間の子どもの手に変えてもらい、右手だけを戸の隙間から差しだして「てぶくろを売ってください」と言うんだよと、さいさん忠告される。
でも、人の前に出た子ぎつねは、予想どおり、間違って左手のきつねの手を出してしまう。
しかし、ここでひどい展開にならない。
親切にも人間のおじいさんは、ちゃんとてぶくろを売ってくれた。
いまかいまかと民家の近くで待っていた母ぎつねは、子ぎつねが元気にもどって来ると嬉しくぎゅっと抱きしめる。
そして意外な話を聞いた母ぎつねは、首をかしげながらつぶやく。
「ほんとうに人間はいいものかしら」
「ほんとうに人間はいいものかしら」
と。
この台詞は、人とは本当に良い生き物なのか?という疑問だろう。
酷い目にあって人間を恐れている母ぎつねだからこう言うのも無理はない。
さてここから読み取るメッセージはなんだろうか?と考えている。
じゃんじゃん
こういうシチュエーションは、生きている喜びをじっくりと実感する。
シナリオ友達と「オーケストラを聴こう!」という企画で、サントリーホールで関西フィルハーモニーを聴いた(5月8日)。
メインのシベリウス『第2』は、なんといっていいか適切な言葉がうかばない、が、とてもとっても素晴らしかった、感動して鳥肌ものだった。
“納得感”が全編にわたっていて、指揮者のこの曲に対する真摯な想いがオーケストラに深いところまで共感・共鳴していて、それを高度なテクニックでホールに響かせていた。
聴いている人の期待感の高さもはじめの一音が鳴った瞬間に音楽に混じって伝わってきて、「これは、名演になるな」と理解した。
北欧の凛とした冷たい空気や広大な土地。そこに生きる暖かく情熱をもった人々。
特に第2楽章にシベリウスの主張のすべてをみた気がした。
作曲の背景はまだ調べていないから分からないけど、なにか巨大な権力か何かに対する焦燥、怒り、無力、激しい抵抗、そういった数々の感情の大きな起伏をそこに聴いた・・・
藤岡さんの指揮はいい意味で分かりやすいし、とても深い。
失礼な話し、安価で初心者にはちょうどいいプログラムだから、とおもって気楽にチケットを取ったのだけど、思わぬ名演に接することができた。
このオーケストラはとてもすばらしい。
指揮者ならずとも奏者にも音楽に対する「もっともっといい音楽を創りたい、聴かせていきたい」という姿勢がうかがえた。
応援したくなる。
シベリウス『第2』は来月もサロネン指揮フィルハーモニア管で聴けるので、ますます楽しみになってきた。
友達から、終演後、指揮者は「なんで何度も行ったり来たりするの?」とか、思わぬ質問はおもしろかった。「そういえばそうだな」って。
みんな、どうだった?これが音楽を作りだすということで、オーケストラ演奏とはこういうことなのだよ。
シナリオ執筆にいつか活かしておくれ。
■そしてその後、千代田線に乗っかって会社の結婚式二次会に向かう。むろんジーンズ。
会場に着いたのがもう終わり近かったので、場はくだけていた。
くだけているけど、さしてみんな酔っているわけでもない。
いくつかの集団に分散して話している。
その集団は仲間うちのよう。会社は会社のもの同士、高校時代の友達もそのなかだけで、といった具合。
積極的に新たなおんなの人に話しかけるおとこもいない。
まあ、いい、時間も短いしじゃんじゃん飲もう、というわけで遅れを取り戻そうとルービー飲み飲み。
主役の二人にそこそこに挨拶とおめでとう、をいい^^;テンションを上げていく。
でも終始「なんだかなぁ・・」という気分は抜けない。
いろんな人と話したんだけど、どうもモヤモヤとした不明瞭な感じ。
このモヤモヤ、その時は分からなくて気持ち悪かったんだけど、こんなことなのかなぁ↓
それは、その場の連中に自己主張があまりないんだ。遠慮しているのか、なにも考えていないからなのか分からないけど、「自分はこうおもう、こう考える」的な言葉がでてこない。
その結果その人自体が見えてこなくて「この人はなんなんだろう?どんな人なのだろうか?」という不明瞭さにつながる。
話していても反応がよわい。手応えがない。
これでは話していても大変になってくる、一方通行で話していてもそれは会話じゃないし。
若者の傾向とは言いたくないが、最近はそんな感じなんですかね。
あまりに仲間内な場と空気感に「やれやれ・・」と場所を変えたくなった。
■さて、『でぶくろをかいに』
これは母ぎつねと子ぎつねのおはなし。
雪のふる晩、あまりの寒さに手が赤くなってしまった子ぎつね。
かわいそうにおもった母ぎつねが、人間のところで、「てぶくろを買いに行っておいで」という。
母ぎつねは昔人間に酷い目にあったので、怖くて自分はいけない、だから坊や、ひとりで行っておいで、と(ちょっと腑に落ちないのだが^^:)。
魔法で右手だけを人間の子どもの手に変えてもらい、右手だけを戸の隙間から差しだして「てぶくろを売ってください」と言うんだよと、さいさん忠告される。
でも、人の前に出た子ぎつねは、予想どおり、間違って左手のきつねの手を出してしまう。
しかし、ここでひどい展開にならない。
親切にも人間のおじいさんは、ちゃんとてぶくろを売ってくれた。
いまかいまかと民家の近くで待っていた母ぎつねは、子ぎつねが元気にもどって来ると嬉しくぎゅっと抱きしめる。
そして意外な話を聞いた母ぎつねは、首をかしげながらつぶやく。
「ほんとうに人間はいいものかしら」
「ほんとうに人間はいいものかしら」
と。
この台詞は、人とは本当に良い生き物なのか?という疑問だろう。
酷い目にあって人間を恐れている母ぎつねだからこう言うのも無理はない。
さてここから読み取るメッセージはなんだろうか?と考えている。
じゃんじゃん