■今朝、キッチンのラジオからはルチア・ポップの歌声がながれていた。

NHKでの彼女の特集。ちょうどこのとき、ポップ25歳の録音でW・A・モーツァルトの歌劇『魔笛』から夜の女王の有名なアリアを2つ聴いた。

バックはオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団。

食器を洗いながら何気なく聴いていた。だけど、そのうち演奏につよく惹かれだした。

ポップの張りのある輝かしい歌声!それにあの超絶的アリアをまったく苦にしない安定感。さらにオーケストラの腰がどっしりすわった説得力(それでいて繊細な響き)が、なにかとんでもない世界をつくりだしているような、それはものすごい演奏に聴こえたのだ。

これを聴いて、モーツァルトの書いたオペラが、いかにとんでもなくすばらしい作品なのかも分かった気がするし、当時の演奏事情はこんなにも優れていたんだなぁ、と感慨深げになった。

ここ最近聴く音楽というのは、ムラヴィンスキー、フルトヴェングラーやカルロス・クライバーのライヴ録音が多く、こういうとんでもない演奏ばかりをもとめている。

現在、彼らに匹敵する指揮者は、ニコラウス・アーノンクールくらいじゃないか。

そういう魂に深く突き刺さり、そしてそのまま心をぐるぐるひっかきまわしてくれる演奏でないと、満足できない今の自分の状態なのだ。

それはたぶん、おれの気持ちのどこかが満足していないから、こういう真実を求めているんだろう。


映画も同じで、説明過多で映画性の乏しい現代作品はあまり観る気がしない。

少し前に観た『俺たちに明日はない(ボニーとクライド)』こそは映画の中の映画といえるし、そういう映画を観た満足感に満たされるような作品を観たくなり、近所のレンタルビデオ屋に求めたが、うんざりする結果だった。

『ローマの休日』はすばらしい作品には違いなく俺もワイラー作品では大好きな一本だけど、昔の映画といったらそれしかないのか?この国は。

こうもなんもないと、今の人たちは映画の本当のおもしろさを知らない訳だからかわいそうだと思うし、「映画なんてゲームと変わりなく、さしておもしろいもんじゃないじゃん」なんて軽視されちゃうんじゃないかと恐れる。

べつにおれは回顧主義者でも厭世主義者でもない。

こういうのは、古いものだからいいのではなく、その時代の演奏や映画には“真実”と“充実”がいまよりも濃かったから良いだけなのだ。


それに時代がつくりだす影響はあるとおもう。

軽薄な時代にはそれなりのものしか出来ないのではないか(それに反する動きはあるものの!)。

どんなに努力しても超えられない時代という壁はあるんじゃないのか。

映画でも音楽の演奏でも1930年代から50年代は内容が濃く豊かだった時代。

はたして、後世の人間が現代を振り返ったらこういうのではないか。


“混迷と虚構のなかにあっても技術的には発展した時代”



欧州のように昔からの建築物を大切にする傾向は日本にはない。

街はどんどん様変わりしていく。

でも幸いにも、昔の人が描いた近未来のようにおもいっきり無機質になることは避けられている。

いろんな調和が生かされて人間性は保たれている。なかでも表参道のように調和がうまく成功している街もある。

でも、そこでも歴史が残っているのではなく、“新しい街”だ。

話は脱線した。


まあ、でも言いたいことはそんな感じなので、こんなもんで“じゃんじゃん”です(笑)