■去年の秋に酔っぱらってなくしたSONYのWALKMAN。
しばらくMD生活だったけど、有楽町の家電量販店をのぞいたらかなり値が下がっていたから買いなおした。
(デフレ意識というのは無意識に侵食してくるものだ。おれも気がつけばデフレ意識にのみこまれていて、ものの価格に敏感になっている。それに必要以外のものに金を出さなくなった。世間を覆いこむ意識というのはこわいものだ)
そのWALKMANにはクラシックとそれ以外の音楽を半々に入れている。
クラシック以外だと映画音楽が多い。
『E.T.』『JAWS』『レイダース失われたアーク』『フィールド・オブ・ドリームス』『レオン』『ペリカン文章』のオリジナルサウンドトラック。それからニーノ・ロータ(ムーティ指揮)やバーナード・ハーマン(サロネン指揮)の映画音楽たち。
音楽は楽しむために聴くんだけど、気分を切替えるためにも有効。
外にいるときや昼休みでもうまく時間をつかって物語を考えたいし、本も読みたい。
思考のステージを替えるのに音楽は最適だ。
たとえば、昼休みはデスクを離れて打合わせテーブルにいく。そこで音楽を聴くと、瞬間的に仕事モードからチェンジできる。
それにこのSONYのWALKMANは映像がなくていい。
他のメーカーのやつは映像が見られるタイプになってしまっている。
個人的に、映像には思考を妨げられるから、外にいるときは必要ない。
その“映像”ということでは、最近こんなことが気になった。
今のTVはNHKでも画面下に字幕がでる。
出演者がしゃべっている内容を文字でも表すことが一般になっている。
これなら内容が間違いなく伝わるし、分かりやすいという点でいい。
字幕が間に合わない放送、たとえばライブの場合とか。
今で言うとバンクーバーオリンピックがそう。選手のコメントはライブだと字幕はない。
すると、なんと言っているのかすごく注意して聴く。
そうやって真剣に耳を傾けている自分に気がついたんです。
字幕がなくとももちろん内容は理解できる。反対に字幕があるから声を真剣に聞かなくても問題ない状態。あそこまで字幕があるのはどうなんだろうか?
■シナリオ学校では、自分の作品を自ら読み上げる。
まわりの人は、その作品を理解し映像をイメージするために真剣にその人の声を聴く。
この教室は“聴いて理解する”という能力の訓練にもなって、ここに通うようになってから人の話を聴く姿勢は変わったとおもう。
伝えたい、理解したい、という意識は強くなった。
で、TVの字幕というのは、“聴く”という能力の衰退に繋がらないか?とおもった。
音楽も同じかもしれない。
映像での音楽も楽しむけど、どこかでちゃんと音楽を聴いていないのでは?という疑問をかんじている。
CDで聴いているときは、しっかりと音楽を聴いている!という充実感がある。この違いは・・・
コンサートでもよく目をつむって聴いていることが多くなった。
その方が音楽だけがはいってくる。
視覚と聴覚のせめぎ合いというか。脳はどっちかというと視覚を重要視しちゃうんじゃないかな。
それはヒトが生きるために培われた優先順位かもしれない。
よくそういうことじゃないですか。
生物は生きるために、したたかに意欲的に進化していくもので、機能に優先順位をつけて、不要なものを取り去っていき、重要なものにシフトしていく、という。
見たものの反応を脳は重要視している。
しかし音楽は耳で聴いたものをアタマで感じる。コンサートの場合だと身体ぜんたいで受け止めているという感覚になるのだけど。
そうはいっても演奏者をみる(視覚)のもとっても楽しいものなのだ。
サントリーホールでは決まってPブロックをとってしまうからね。
真剣な小澤さんやラトル、ゲリギエフ、ヤンソンス、ムーティを正面から観る魅力はたいへんなものだから。
■先日、BS1の世界のニュースという番組のなかで、山田洋次監督のベルリン映画祭における特別賞受賞についての番組があった。
山田監督が現地でのスピーチやシンポジウムを通じてベルリンという街の感想を語っていた。
特に映画を観たときの観客の反応の違いに興味があったらしい。
日本よりも感情をあらわにするその率直な反応が新鮮だったようだ。
最新作『おとうと』も超日本的な作品だけど、人間を感じるというところでは日本でもドイツでも変わらない普遍的な感情だ。だから山田作品が海外の人にも感銘を受けるのだろう。
でも国民性からドイツの人は率直に思ったことを表現する。そういうのってとても素敵なことだとおもう。
寅さんシリーズはもうガキのころから映画館で観ていた。
親戚の叔父さんがおれら兄弟を浅草か上野の映画館に連れて行ってくれたのだ。
洋画はお父さんから、邦画(寅さん)は叔父さんから教えられたようなものだ。
正月とお盆は寅さんを観て、うなぎとか美味いもんを食わしてもらって大満足で帰ってくるというパターンだった。
たのしかった。
そのうち大きくなって一人でも寅さんを観にいくようになった。
おれもドイツの人ほどではないかもしれないが、映画館で結構笑う。笑いすぎて死にそうになったこともあるくらいだ(笑)
寅さんは『釣りバカ日誌』シリーズと比較されがちだけど、ぜんぜん質が違う。
寅さんシリーズは内容がとことん深い。
それが晩年になればなるほど内容が深刻になっていき、周囲の観客は笑っているけど、おれは笑えないということがよくあった。
その他『学校』シリーズもよかったし、藤沢周平さんの時代劇シリーズもとても見応えがある。
そういってしまえば簡単に聞こえるけど、どの作品でもとてもふかく感動させてもらえた。
喜びのあまり、どうもに止められない涙に困ったことは何度もある。
心の奥の奥にある真の感情にまでしっかりとどくのが山田作品なのだ。
それがベルリンという国際舞台で認められたことはおれもとても嬉しかった。
おれもがんばろう!!そういう気にさせてくれた。
じゃんじゃん
しばらくMD生活だったけど、有楽町の家電量販店をのぞいたらかなり値が下がっていたから買いなおした。
(デフレ意識というのは無意識に侵食してくるものだ。おれも気がつけばデフレ意識にのみこまれていて、ものの価格に敏感になっている。それに必要以外のものに金を出さなくなった。世間を覆いこむ意識というのはこわいものだ)
そのWALKMANにはクラシックとそれ以外の音楽を半々に入れている。
クラシック以外だと映画音楽が多い。
『E.T.』『JAWS』『レイダース失われたアーク』『フィールド・オブ・ドリームス』『レオン』『ペリカン文章』のオリジナルサウンドトラック。それからニーノ・ロータ(ムーティ指揮)やバーナード・ハーマン(サロネン指揮)の映画音楽たち。
音楽は楽しむために聴くんだけど、気分を切替えるためにも有効。
外にいるときや昼休みでもうまく時間をつかって物語を考えたいし、本も読みたい。
思考のステージを替えるのに音楽は最適だ。
たとえば、昼休みはデスクを離れて打合わせテーブルにいく。そこで音楽を聴くと、瞬間的に仕事モードからチェンジできる。
それにこのSONYのWALKMANは映像がなくていい。
他のメーカーのやつは映像が見られるタイプになってしまっている。
個人的に、映像には思考を妨げられるから、外にいるときは必要ない。
その“映像”ということでは、最近こんなことが気になった。
今のTVはNHKでも画面下に字幕がでる。
出演者がしゃべっている内容を文字でも表すことが一般になっている。
これなら内容が間違いなく伝わるし、分かりやすいという点でいい。
字幕が間に合わない放送、たとえばライブの場合とか。
今で言うとバンクーバーオリンピックがそう。選手のコメントはライブだと字幕はない。
すると、なんと言っているのかすごく注意して聴く。
そうやって真剣に耳を傾けている自分に気がついたんです。
字幕がなくとももちろん内容は理解できる。反対に字幕があるから声を真剣に聞かなくても問題ない状態。あそこまで字幕があるのはどうなんだろうか?
■シナリオ学校では、自分の作品を自ら読み上げる。
まわりの人は、その作品を理解し映像をイメージするために真剣にその人の声を聴く。
この教室は“聴いて理解する”という能力の訓練にもなって、ここに通うようになってから人の話を聴く姿勢は変わったとおもう。
伝えたい、理解したい、という意識は強くなった。
で、TVの字幕というのは、“聴く”という能力の衰退に繋がらないか?とおもった。
音楽も同じかもしれない。
映像での音楽も楽しむけど、どこかでちゃんと音楽を聴いていないのでは?という疑問をかんじている。
CDで聴いているときは、しっかりと音楽を聴いている!という充実感がある。この違いは・・・
コンサートでもよく目をつむって聴いていることが多くなった。
その方が音楽だけがはいってくる。
視覚と聴覚のせめぎ合いというか。脳はどっちかというと視覚を重要視しちゃうんじゃないかな。
それはヒトが生きるために培われた優先順位かもしれない。
よくそういうことじゃないですか。
生物は生きるために、したたかに意欲的に進化していくもので、機能に優先順位をつけて、不要なものを取り去っていき、重要なものにシフトしていく、という。
見たものの反応を脳は重要視している。
しかし音楽は耳で聴いたものをアタマで感じる。コンサートの場合だと身体ぜんたいで受け止めているという感覚になるのだけど。
そうはいっても演奏者をみる(視覚)のもとっても楽しいものなのだ。
サントリーホールでは決まってPブロックをとってしまうからね。
真剣な小澤さんやラトル、ゲリギエフ、ヤンソンス、ムーティを正面から観る魅力はたいへんなものだから。
■先日、BS1の世界のニュースという番組のなかで、山田洋次監督のベルリン映画祭における特別賞受賞についての番組があった。
山田監督が現地でのスピーチやシンポジウムを通じてベルリンという街の感想を語っていた。
特に映画を観たときの観客の反応の違いに興味があったらしい。
日本よりも感情をあらわにするその率直な反応が新鮮だったようだ。
最新作『おとうと』も超日本的な作品だけど、人間を感じるというところでは日本でもドイツでも変わらない普遍的な感情だ。だから山田作品が海外の人にも感銘を受けるのだろう。
でも国民性からドイツの人は率直に思ったことを表現する。そういうのってとても素敵なことだとおもう。
寅さんシリーズはもうガキのころから映画館で観ていた。
親戚の叔父さんがおれら兄弟を浅草か上野の映画館に連れて行ってくれたのだ。
洋画はお父さんから、邦画(寅さん)は叔父さんから教えられたようなものだ。
正月とお盆は寅さんを観て、うなぎとか美味いもんを食わしてもらって大満足で帰ってくるというパターンだった。
たのしかった。
そのうち大きくなって一人でも寅さんを観にいくようになった。
おれもドイツの人ほどではないかもしれないが、映画館で結構笑う。笑いすぎて死にそうになったこともあるくらいだ(笑)
寅さんは『釣りバカ日誌』シリーズと比較されがちだけど、ぜんぜん質が違う。
寅さんシリーズは内容がとことん深い。
それが晩年になればなるほど内容が深刻になっていき、周囲の観客は笑っているけど、おれは笑えないということがよくあった。
その他『学校』シリーズもよかったし、藤沢周平さんの時代劇シリーズもとても見応えがある。
そういってしまえば簡単に聞こえるけど、どの作品でもとてもふかく感動させてもらえた。
喜びのあまり、どうもに止められない涙に困ったことは何度もある。
心の奥の奥にある真の感情にまでしっかりとどくのが山田作品なのだ。
それがベルリンという国際舞台で認められたことはおれもとても嬉しかった。
おれもがんばろう!!そういう気にさせてくれた。
じゃんじゃん