■「生活のリズムをこれ以上早めるのを彼らは認めてない」
アーミッシュの方々の生活を、敬意をもって書かれた菅原千代志さんの台詞。
今書いている物語の参考にしようとアーミッシュに関する本を読んでいるんだけど、いろいろ考えさせられる。
世界は勝手に資本主義や各々の国益を中心にした“常識”という乗り物に我々は乗せられて“ある方向”にいやおうなく向かっているんだけど、それはよくみれば間違った方向なのではないか。
いや、正しいとか間違ったという指標ではなく、魅力があるのか?魅力がないのか?という目で見ても、そうじゃない方向に向かっている気がする。
なんでもかんでも新しくめずらしい文明や便利を受け入れている現代人は、ふと立ち止って吟味することをしない。
それは企業戦略がそうさせているという点(考えるという時間や思考能力を奪われている)もあるが、いちばん大切なことであろう、個人レヴェルでの時代の考察ということを我々はしなくなった。
そういえば我々は疲れている。
会社が終わって電車に乗っている人達は、ひどく表情がなく脱力感がにじみ出ている。
いつも見慣れている風景だけど、昨日は「なんでこんなにみんな疲れているんだ?」と考えた。
そして2つ思い当たることがあった。
1つは気力がないということ。
気力というか気概がみえない。どこでも人の後ろにいて、うつろな表情をするか周囲を気にする目つき。または反抗して敵対意識で世の中をにらむ。
どれにしても人がそうなるのは、先の見えない不安な世の中ということもあるが、気力がないからではないか。
そういうオレも実は気力がない。
酒の飲み過ぎってのもあるだろうけど(笑)
それはさておき、どうすれはその気力がもどるのか?ということを考えている。
方法は意外と簡単かもしれない。ちゃんと飯食ってがんがん身体を動かせば気力はでるんじゃないか。
2つめは、ケイタイの功罪。
一極集中が加速しているケイタイという端末だけど、この手軽さ、便利さにみんな飛びついてしまっている。
ぼうっとケイタイを眺めるその無気力な表情はあまりに不気味だ。
ケイタイは何も考えないから疲れを癒してくれるという側面があるけど、オレはどうしても懐疑的に考えてしまう。
電車に座っているほとんどの人が無言でケイタイを操作している風景は、それだけでSF映画になりうるくらい非人間的なものだ。
市場主義経済システムにおいて、ほとんど一人勝ちしようとしているケイタイは、なんでもかんでも呑み込んでいく。
そしてそういう事態になってきても、アーミッシュの人たちのような考察はない。
新商品を購入して先端をいくのが正しい生き方であるように我々は仕向けられている。
かといって消費を拒否して経済が停滞したらどうするんだ?という人もいるだろう。
経済というのはそのとおりで、消費者と一蓮托生だ。
だから消費者の犠牲のうえに経済の繁栄があるわけだ。
経済にとって人間性なんてものはどうでもいい。
人間にどんな影響がでようが、ゲームでもPCでも手軽で健康的とはいけない食品でもどんどん売って消費に消費を重ねて金をじゃんじゃん使ってくれないと経済は困るんだ。
そういう仕組みのなかで現代人は生かされている。
アーミッシュのような考えは経済には敵なのだ。世界にひろがっては困るのだ。
それとともに星野道夫さんの言葉も染みている。
友達から借りている本なのだが、とても真にせまった世界観をもっている。普遍的だ。
自然や動物に対する真摯な想いには、誤魔化しがない。
生き物が生きるためは他の生き物を殺して食べるしかない。
それは人でも例外ではない。
しかし、生きるために死んでくれたほかの生き物のことに感謝する。
おべんちゃらでヤワな偶像などはない。
どの生き物を獲るなら良く、どれが駄目とかそんな嘘の話ではないのだ。
どんな生き物を殺すのでも命は命に変わりなく、同等。
ただ、今はそういう生き物の死が見えない、生き物だけじゃなく人間の死すら隠してしまう。
これだけでも現代人は都合よく生きているというのがわかる。
だから我々は生きているという実感がもてないんじゃないかな。
生きていて当たり前だと思い込んでしまう。
でも、そうじゃない。死はすぐ隣にある。自分は死ななくても自分を生かしてくれている生き物の死はすぐ隣にあるということを知らされないで生きている。
そういう当たり前の事実をアラスカ生活を通じて星野さんは伝えてくれた。
話を戻すとあれかもね。
我々の気力の無さというのは、(経済成長とか)目標がなくなったといわれるけど、それ以前に社会に“当たり前”がどんどんなくなってきているからじゃないのかな。
当たり前がないとそれは真実が見えない社会だということ。
人間も生き物だから、真実が見えないことを本能的に理解し、不安を感じる。
あるべきものを隠して、きれいな生活をすることによって、どんどん元気がなくなる。
そう考えると合点がいく気がする。
じゃんじゃん
アーミッシュの方々の生活を、敬意をもって書かれた菅原千代志さんの台詞。
今書いている物語の参考にしようとアーミッシュに関する本を読んでいるんだけど、いろいろ考えさせられる。
世界は勝手に資本主義や各々の国益を中心にした“常識”という乗り物に我々は乗せられて“ある方向”にいやおうなく向かっているんだけど、それはよくみれば間違った方向なのではないか。
いや、正しいとか間違ったという指標ではなく、魅力があるのか?魅力がないのか?という目で見ても、そうじゃない方向に向かっている気がする。
なんでもかんでも新しくめずらしい文明や便利を受け入れている現代人は、ふと立ち止って吟味することをしない。
それは企業戦略がそうさせているという点(考えるという時間や思考能力を奪われている)もあるが、いちばん大切なことであろう、個人レヴェルでの時代の考察ということを我々はしなくなった。
そういえば我々は疲れている。
会社が終わって電車に乗っている人達は、ひどく表情がなく脱力感がにじみ出ている。
いつも見慣れている風景だけど、昨日は「なんでこんなにみんな疲れているんだ?」と考えた。
そして2つ思い当たることがあった。
1つは気力がないということ。
気力というか気概がみえない。どこでも人の後ろにいて、うつろな表情をするか周囲を気にする目つき。または反抗して敵対意識で世の中をにらむ。
どれにしても人がそうなるのは、先の見えない不安な世の中ということもあるが、気力がないからではないか。
そういうオレも実は気力がない。
酒の飲み過ぎってのもあるだろうけど(笑)
それはさておき、どうすれはその気力がもどるのか?ということを考えている。
方法は意外と簡単かもしれない。ちゃんと飯食ってがんがん身体を動かせば気力はでるんじゃないか。
2つめは、ケイタイの功罪。
一極集中が加速しているケイタイという端末だけど、この手軽さ、便利さにみんな飛びついてしまっている。
ぼうっとケイタイを眺めるその無気力な表情はあまりに不気味だ。
ケイタイは何も考えないから疲れを癒してくれるという側面があるけど、オレはどうしても懐疑的に考えてしまう。
電車に座っているほとんどの人が無言でケイタイを操作している風景は、それだけでSF映画になりうるくらい非人間的なものだ。
市場主義経済システムにおいて、ほとんど一人勝ちしようとしているケイタイは、なんでもかんでも呑み込んでいく。
そしてそういう事態になってきても、アーミッシュの人たちのような考察はない。
新商品を購入して先端をいくのが正しい生き方であるように我々は仕向けられている。
かといって消費を拒否して経済が停滞したらどうするんだ?という人もいるだろう。
経済というのはそのとおりで、消費者と一蓮托生だ。
だから消費者の犠牲のうえに経済の繁栄があるわけだ。
経済にとって人間性なんてものはどうでもいい。
人間にどんな影響がでようが、ゲームでもPCでも手軽で健康的とはいけない食品でもどんどん売って消費に消費を重ねて金をじゃんじゃん使ってくれないと経済は困るんだ。
そういう仕組みのなかで現代人は生かされている。
アーミッシュのような考えは経済には敵なのだ。世界にひろがっては困るのだ。
それとともに星野道夫さんの言葉も染みている。
友達から借りている本なのだが、とても真にせまった世界観をもっている。普遍的だ。
自然や動物に対する真摯な想いには、誤魔化しがない。
生き物が生きるためは他の生き物を殺して食べるしかない。
それは人でも例外ではない。
しかし、生きるために死んでくれたほかの生き物のことに感謝する。
おべんちゃらでヤワな偶像などはない。
どの生き物を獲るなら良く、どれが駄目とかそんな嘘の話ではないのだ。
どんな生き物を殺すのでも命は命に変わりなく、同等。
ただ、今はそういう生き物の死が見えない、生き物だけじゃなく人間の死すら隠してしまう。
これだけでも現代人は都合よく生きているというのがわかる。
だから我々は生きているという実感がもてないんじゃないかな。
生きていて当たり前だと思い込んでしまう。
でも、そうじゃない。死はすぐ隣にある。自分は死ななくても自分を生かしてくれている生き物の死はすぐ隣にあるということを知らされないで生きている。
そういう当たり前の事実をアラスカ生活を通じて星野さんは伝えてくれた。
話を戻すとあれかもね。
我々の気力の無さというのは、(経済成長とか)目標がなくなったといわれるけど、それ以前に社会に“当たり前”がどんどんなくなってきているからじゃないのかな。
当たり前がないとそれは真実が見えない社会だということ。
人間も生き物だから、真実が見えないことを本能的に理解し、不安を感じる。
あるべきものを隠して、きれいな生活をすることによって、どんどん元気がなくなる。
そう考えると合点がいく気がする。
じゃんじゃん