■このまえ居酒屋でシナリオ仲間と飲んでいて変なお品書をみつけた。

“鯖のヘレン”

「なんだ“サバのヘレン”って?どんな料理かまったく想像つかんな。たのんでみようぜ」

ってことで店の人に「(メニューを見ながら)じゃあ、サバのヘレンもらえる?」っていうと、一瞬間をおいて「・・“サバのへしこ”ですね」とお店の人。

「へしこ?ヘレンじゃないの?」

「はい、サバのへしこです」

「マジ?!」

で、そっから爆笑^^

平仮名の“へしこ”がカタカナの“ヘレン”に見えるんだ。ありゃ書き方がよくないぜ。

でてきた“鯖のへしこ”は、塩漬けにした鯖をたくあんみたいなヤツで挟んであるものだった。

味はいかにも日本酒に合うしょっぱい味付けで、まあまあだったな。

俺としては“鯖のヘレン”を食いたかった。

いったいどんな料理なんだ。ヘレンというだけあって金髪のチャンネーをイメージしていたし、そのパツキンと鯖とのコラボレーション!?って、まったくわけわかんないよな。

その後の会話で今度“鯖のヘレン”という題名でシナリオを書くはめになったんだけど、どうしようっかな^^;



■ときに人っていっぺんに幾多の変化を同時に経験することがある。

これが他人の身の上のことだとそれなりに冷静に判断できてアドバイスできるんだけど、いざ自分の身に起こるとそういう頭の回転はほとんど機能しない。

客観的に自分のことを見れている気でいるのだが、そんな自信はあっという間にふっとぶ。

それは、自分という人間がいちばんよく分からない存在であるということなのかもしれない。

反面、みなそれだけ深く自分という人間に接している証だろうけど。


シナリオを書く目的の根本はその回答を見つけたいからというところがあるからだ。


人間っていったいなんなんだ?俺ん中にある人間ってヤツの実態はどんなんだ?


シナリオや小説は人間研究の最たるものだし、そこから離れて違うものを目指すとおもしろみがなくなり、薄っぺらで陳腐なものになる。

表現方法はいろいろある。何もシリアスな社会派ドラマで表現しなくてもぜんぜんいい。

コメディでもホラーでも人間を描くことは可能なのだから。


最近、友人との会話で「(変化というのは)必然なことだから前にすすむしかない」と言われ、ハッと目が覚めるおもいがした。

それまで後ろ向きにモノゴトをとらえている自分に気がつかなかったんだ。

世界は広いという当たり前のことすら忘れていたようなものだ。

その直後に、京都賞で来日したピエール・ブーレーズの「私はあらゆる影響を受け容れることにしています」と話すインタヴューを読んだ(「受け容れることにしています」というのは“姿勢”を言っている。そういうふうに心がけているというじつに正直で謙虚なコメントだ)。

「あのブーレーズはそんなことを意識していたのか」

どんなことも否定せずに起こるべく起きたこととして目をそらさない生き方、寛容さ、こっちから挑む積極さ、広さ、貪欲さ。

そういう前向きな意識があのような音楽を創りだした根本なのかとおもった。

その他にもその類の言葉に敏感になっているせいか、同様のことに触れている。

そのせいか、いまの自分に関係することは、必然なことが起こっているに過ぎない、と、そう考えるようになってきている。


偶然などは世の中にない、振り返ってみればすべては必然だったのだと、その地点にたったときにはじめて思えるのだろうね。


■先週まではめずらしく飲み飲みの毎日だった。

それはとってもおもしろいんだけど、こう毎日だと考える時がない。

今週からまた通常のペースになる。

日常はおもしろい。やっとシナリオに本腰がいれられるし、音楽が身近にもどってくる。

このまえ酔っぱらいながらもベートーヴェンのシンフォニーを聴いた。

ベートーヴェンは久しぶりだったんだけど、そのあまりにも生命力に溢れたパワーに驚いた。

クライバーとウィーン・フィルの『第7』第1楽章の展開部。

ここには真のベートーヴェンのすべてがつまっている。

それとフルトヴェングラーのシューマンの春もすごい迫力だった。

チェリビダッケのベートーヴェン『第9』のスケルツォ。決して音楽は流されず、すべてのシーンに意味を気がつかせるアクセント。なかなか聴けない演奏で感銘をうけた。


年末ですね!元気に乗切りましょう!!

じゃんじゃん!