■「結局人は自分の中にあらかじめ存在しているものに対してしか反応しないのだ」(パウル・ベッカーの言葉、「音楽の聴き方」より)

これは、とても興味深い一節です。

ある音楽を聴いて、どういうふうに思うのか、というのは、全員が違う。

誰かとまったく同じ感想を持つというのはありえない。自分に限っても時と場合によっては感想が変わってしまう。

感じ方はそれくらい幅が広いということであり、“自分”なんていうのは不確定要素の塊だということなんだろう。

クラシックを聴きはじめた高校生の頃はよく音楽雑誌を買って、評論を読んで参考というか指標にしてしまっていた。

でもそのうち、お偉い先生方が書く意見と、自分の感じた感想の違いに戸惑うようになった。

評論家の意見が普遍的で正しくて、俺の感想なんてのは間違っているんじゃないかと、萎縮していった。

そのうち、あまりにも評論と違うことにくたびれたし、なんだかくだらなくなってきた。評論を読むのは音楽を聴くことの邪魔をしていると感じるようになって、評論は一切シャットアウトした。

誰々の演奏が良い、ランキング何位とか、そんなものはいらないとおもった。

音楽の作られた背景を物語っていたりするものや、作曲者自身の言葉だけに限定して、評論家の独自の感想はみないようにした。

当時の俺はまだ幼く流されやすかったのかもしれない。

でも当時も流されまいとする姿勢だけはもっていたから、その闘いにはうんざりしていたのだろう。

「フルトヴェングラーの第九はバイロイト盤がいい」と散々聞かされ、その度に聴いてきたけど、あまり良いとは思わない(1943年のベルリン盤の方がだんぜん好きだ)。

今では評論を読んでも流されることはなくなり、独自の判断で楽しめるようになった。


その芸術について、どう受けとめるのか?というのは、ほんとうにその人の全人格がどういう状態にあるのか、どういった経験を経てどんな感受性を取得してきたのか、によると俺もそうおもうのだ。

ピカソの絵をみてどう思うのか?

これだって俺独自の考え方、見方しかないと思うし、それでいいとおもう。

どんどん自分の見方を追及していきたいくらいだ。


さらにこうもおもう。幸福なときにはみえない壮絶なものが、不幸な状態のときに限ってみえるものだと。

目をとおして見える世界は一緒だけど、感じ方が決定的に違うということはあるんじゃないか。それによって見え方までも違うかもしれない。

たとえば、イチョウ並木を歩いていて、自分が幸福なときとそうでないときでは、“見えるもの”が違う。

厳しい心境のときには、なにかに、だれかに、救いを求めている。ある意味とても餓えている。これは危険な状態であるがチャンスでもある。

餓えていると言っても、求めるものはなんでもいいのではない。

チャライものなんかじゃとても満たされない、“真のもの”に餓えている。

そんなときに、うつくしい自然や、芸術に触れると直接魂に響いてくるものだ。

そのときはじめて、そのものを分かる。芸術を分かろうとする心が理解するぞと準備ができていて、やっと分かるのだ。

ベートーヴェンでもバッハでもモーツァルトでも、そういう状況じゃないと分からない要素にみちている。

だから、厳しい心の状態でも、なんかしらのプレゼントは用意されているのだ。

人間はうまくできているものだ。

そう考えると人生捨てたもんじゃないでしょ。