
アメリカの新聞存続の危機は、少し前から日本でも報道されていた。
この番組はその現場に入りこんだ非常に興味深い内容だった。
■新聞購読者が無料インターネットでの報道記事へ一気に流れてしまったことによる新聞社の打撃、それも生半可じゃない大打撃(購読料、広告料とも)。
そこにきた世界同時経済不況の大波にのまれ、あっという間に倒産においやられてしまう。
見ていて「まだ海の向こうの出来事だ」という気楽な気持ちは到底もてなかった。
新聞という媒体が消える社会は、どんなことが起こるのか?
これを考えるとどうしても明るいものは浮かんでこない・・・
ロッキーのジャーナリスト達の実直で情熱的行動の甲斐もむなしく、経営者は“倒産”を選択する。
その後彼らは新聞以外の方法で、報道活動を再開しようとするが、うまくいかない。
どんなに人の心をうつ素晴しい記事を書いたとしても、無料インターネットには勝てない。
記事の質ではなく、無料というだけでヘッドライン的で表面的な記事を人々は選択してしまう。
ロッキーの元記者たちはさぞや悔しいおもいをしただろう。
この出来事は今春のことなので、現在も歯がゆいおもいのなか彼らは活路を探し続けているはずだ。
“政府の監視役”としての新聞。その弱小化による危機感。
個人的に、アメリカの新聞は、日本のそれよりも公平で厳しい目を政府に向けていると感じている。
記者がつかんだ情報はたとえ危険がともなっても世の中に伝えるべきものだという勇気があり、義務であると考えている。
反対に日本の新聞はまれに政府寄りの見解が垣間見える。
自分も新聞はよく読むが、記事によっては真実の報道をしているとはおもえないものがある。
表面的な内容しか載せない。肝心のことが意図的に省略されている場合があり、それはもちろんどこかから圧力がかかっているんだろうけど、それにしても引け腰だ。だから100%信頼はできない。
日本での核心を知るにはノンフィクション誌にも頼ることが必要だけど、最近そのノンフィクション誌も廃刊に追い込まれている。日本の報道も危機的な状況になりつつあるようだ。
■アメリカと日本で起きている(世界中かな)新聞離れは、市民の“真実を知ろうとする意欲の低下”に直結する。
操作されやすい国民の育成、その結果、必ず訪れるであろう深刻な危機。
これを“都合のいい操作”だとおもっている。
ごく一部の人間にいいように簡単に操られてしまう従順で考えない人々。そこには本当の自由はなく本当の幸福もない。
表向きは、私達は自由だと思わされるであろうし、幸福だと思わされる。そういうマガイモノ程度のものしか提供されない。
そしてそれを誰もが疑わない。当たり前だとおもう。
疑いようがない、だってそれしか知らないから。知らされないなから。知ろうとしないから。
そういう都合のいい操作をされる。またはされやすい社会になる。
日本の人たち(特にこの会社)の会話を聞いていると、民放のTV番組には声高々に饒舌になっているが、お堅い現実の話題に変わると口をつぐんでしまう。
出てきてもワイドショーで芸能人パーソナリティが話している内容を模倣する程度。個人が考えている意見ではない。
事件やゴシップには敏感に興味を示すが、ワイドショー的な議論の枠をでない。
その中にある心理的なものや事件の背景などに考えが及ぶことがなかなかない。
このことは多くに市民に万延していて、いまやそれが“常識”とさえなっている。
この現実には、ほんとうに危うさを感じる。
実際、この国のメディアはそうとう酷くなっている。
人々の関心は、日本の実情、政治、世界の現状にではなく、目先の手軽さ、安易な幸せの追求にあるかのようだ。
ちょっと辛口だけど、オレはそうおもってしまう。
無料のインターネット情報。
ただほど高いものはない、といわれる。
また、便利にはそれと同等の危険がついているものだ。
めっちゃ古い人間のような言葉だけど、そうおもう。
我々はある意味もっと利口になる必要がある。
それには利口になりたいという意思が人々のなかにないとなにも始まらない。
これがとても高いいちばんのハードルだ。
だから反対に、なにかを学びたい、知りたい、という意欲が人々に出てきたら望みはある。
それまで、世の中にさして関心はないけども、これはどうもおかしい、ちょっと知ってみたい、まずは読んでなかった新聞から世の中を知ることからはじめよう。
ここはいっちょ真剣に取り組んでみるか!(おもったら即行動することが大切だ。後回しにすると決意がなくなり、もとの人間から進歩できない。人は変われる)
そういう意識があれば一歩前に前進する。
そして、こういう前向きな意識の人には未来がある。
さらに、そういう人々が増えてくれば、その国には明るい未来はある。
これも信じていることの1つだ。