
ずっと昔にマンガで読んで、美味そうだなぁ、とおもっていた。
食べてみると想像と少し違っていたけど、うなぎそのままの美味しさが伝わるかんじ。
ほどよく脂がのっていて、やわらかく、上品だ。
「なるほど。これは美味いもんだな」
焼き鳥も塩で食べるのが好きだから、大好きなうなぎもこれからは機会があれば白焼きで食べることにしよう^^
■“ノー”と言えない男がいる。
仕事でもそれ以外の場合でも、言われたことについて「はい」という答えしかもっていない。
あきらかに「これはムリだろう」とおもってみていても返ってくる答えは「はい」なのだ。
そして本人は脂汗をかきながらうんうん唸っているばかりで、いっこうにモノゴトがすすまない。
「この状況は苦しくないか?ムリなことに“ノー”と言うくらいなんでもないことだぜ」と話をきいてみても、そいつの心境はなかなか見えてこない。
大きな隔たりばかりを感じる。
コヤツは「はい」という答えに限定しているのか?
相手の気分を損ねるかもしれないという過剰な思い込みから、なんでもかんでも“イエス”といってしまうのか?
「そんなこと意識しなくてもいい」と言っても、その言葉がのみ込めていないのがわかる・・
■対人関係(コミュニケーション)活動というものがあるが、これも似たような状況に陥っている。
はじめっから最終的な理想を決め付けてしまっている。
“みんな仲良くなる”という着地点。
ここにムリがある。
結果的にそうなればいいんだけど、それありきで活動するとおかしなことになる。
そうではなく、とりあえず相手のことを知る、というポイントでいけばいいんじゃないか。
で、知ってみたらそいつとは到底合わないと分かるかもしれない。
それならそれでいい。
合わない人は合わないものだし、それを知ることがまずは大切。
それだけでも相当な進歩だとおもう。
そしてムリに合わせようなんておもわないことだ。
そのうち合うかもしれないし、ずっと合わないかもしれない。
それが自然だろう。
それに、合わないながらもいろいろ深い部分で話す機会があれば「その人は嫌いだけど、ある一部分だけは尊敬できる」とか、そういう光が見えてくるかもしれない。
そういう階段を何段も飛び越して“仲良くしましょう!”なんて言ってるから、意味がなく空虚なものになってしまう。
相手のことを知るということは実は大変なことなのだ。
親しくなって相手のことがどんどん分かるようになると、それまで見えなかったことが見えてくる。
はじめの印象を違う。
だいたいの人はそうだ。
どんな人にも平等にすべてをさらけ出して生きているやつなんてそうそういない。
ましてや日本なんてまだまだタテマエ社会だから表層での対人関係になりがちだ。
それはそういうものだから、それを恐れて本心を隠したってしょうがない。
じゃんじゃん出すべきだ。
付き合っていくと、それぞれがいろんな側面があることが分かるし、その都度葛藤があって人間関係は成り立っている。
それを避けてとおることは出来ないし、避けようなんておもわないことだ。
これから日本は外国の人たちをどんどん受け入れるようになる。
いままで経験したことのない多国籍社会に突入する。
ただでさえ閉鎖的な国民性なのに、このままで外国の人たちとうまく共存していけるのか?
日本人は根本から意識を変える必要があると考えている。
KYとかそんなちっちゃなことに気をとられている場合じゃない。
失敗なんか考えないで本心で人とぶつかりあわないとならない。
じゃんじゃん!