
ある新聞記事に、中国ではこの小説を読んでいる学生がおおい。一人っ子政策のため溺愛されて育った子ども達の心に訴えかける“何か”があるのだろう・・と、そんなようなことが書いてあった。
日本の小説を中国の人が熱心に読んでいる。でも、俺はこの作家の本をまだ一冊も読んだことがない。いったいどんなところが彼らの心に響いたのだろうか?と関心をもった。
その日にちょうどABCに行ったので、うろうろしているうちに平積みになっている『ノルウェーの森』にであった。
パラパラっと中身をみて、文字種(ゴシック体とか明朝体とか)が気になったけど、おもしろそうな出だしだったので、そのままレジに向った。
読み出すと、なんともグレーで文学色の濃い小説だ。しかし、かなり読みやすく意味がよくわかる、それに不思議な奥行の深さがある。
主人公の青年には確固たる主張はなく、どこに向っていくのかがハッキリしていないが、生き方には自由な気風がある。
考えてみれば、人は確固たる信念のまま突き進もうと思っても、なかなか容易にいかないし、仮に信念の塊だけでわき道にそれることなく生きている人がいたら、おもしろみに欠けるだろう。
主人公の周囲の女性達は反対にハッキリした性格だ。
主人公は、そのハッキリした女性達と(その柔軟さゆえ)うまく付き合っていって、物語の進行役も務める。
この小説は、どこか手探りで戸惑いながら読にはじめたけど、かなり惹きつけられていて読書のほとんどの時間を『ノルウェーの森』にあてている。
小説の中の台詞にもあるけど、いろんな作家さんの本を読むことはいいのだろう。
本を一冊読むと、それだけ新しい世界が自分のなかに宿る。“宿る”とはちょっと大袈裟だけど、なんかしらの影響は確実に与えられる。
なので、ちょっとしたきっかけで興味をもてば、新たな世界にいけるチャンスなので、いろいろ分野を広げて読んでいくことはその人の内面をひろくする。
世の中には途方もなく膨大な数の書籍がある。
どの作家も大変な想いをして書いた情熱と努力の結晶だ。
しかし、そのすべてを読むことは不可能だし、自分にいいものだけという括りをしても無理だろう。
人が生きているうちに読める本は非常に限られてしまう。
その奇跡的な出会いを考えると、どの本もおろそかにはできない。
たとえ、そのときおもしろくなく途中で挫折してしまっても、時が経てば人生経験を踏んでいるので、難関な部分が理解できるようになっている場合がある。
メジャーな売れている本ばかりでは、みんなと同じ目線しか育たない。
それでは視野がせまい。
だから、大きな書店の片隅にあるような本のページをめくってみることは大切だ。
それにしてもこの小説の主人公の名前、よく知っている人と同姓同名だった。今度会ったら言ってみよう。
「ワタナベさんが主人公の小説があるんだね。読んだことあります?」って。
その主人公が好意を寄せている直子さんはブラームスの4番が好きだということで、今の俺と同じ。
■で、ブラームスの第4をフルトヴェングラーで聴いている(今度はメロディアのCD盤)。
それとベートーヴェンの第9をオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(TESTAMENTのステレオライヴ)とベーム指揮ウィーン・フィル(1980年)で。
久しぶりに往年の大巨匠たちの演奏を聴いたのだけど、新たなことに気がついた。
それは、彼等の演奏はスコアを超えているというか‥スコアを最大限活かしきっているといった方が、誤解がないかな。
フルトヴェングラーは、作曲家が書いたスコアをもう完全に手中に収めている。
ブラームスの第一楽章は一見(一聴?)すると速すぎるテンポに聴こえる(ああいう演奏は今の指揮者はぜったいにしない)
でも、そうではなく、あの複雑な交響曲のスコアを簡単に、変な表現だけど、簡単に聴かせるのだ。
鼻歌でもうたっているようにさえ感じる。
しかし、軽くなんかまったくない、とてつもなく深い。
「ああ、この人は知っているんだな・・」と今さらながらフルトヴェングラーの高次元の理解度、解釈度に驚いた。
クレンペラーの第9のスケルツォもものすごく濃い音楽。
そういえば、学生の頃は彼らの音楽を毎晩夢中で聴いていた。
これこそがホンモノ中のホンモノという確信をもって。
でも、そのときの自分では理解できないものが今の自分では理解できる。
そういう部分が確実にある。スコアを見ながら、つくづく音楽ってヤツはどこまで深いんだろうか・・とおもった。
音楽と離れてはいけない。
自分にそう言い聞かせている。