■経済不況による雇用確保の観点から、ワークシェアリングを導入する企業がふえている。

ワークシェアリングは、少なくなった仕事をみんなで分かちあおうというものなので、それまでの競争主体の社会から協調社会のような、新しい方向転換とみることもできる。

いろんな観点からみると、これが良い事なのか、そうではないのか、様々だ。

直感的にみて画期的なことだと個人的におもう。

この国の経済重視・人間性軽視の構造は、どうにかならないものか?と考えてきた。

経済優先社会の加熱は、人間そのものの存在価値が薄くなり、それによる弊害が浮き彫りになっている。このままでは加速度的に増える。

この流れを打ち破るには、生半可なものじゃなく、国そのものが手痛い目に遭わないとムリだろうと考えてきた(もちろんそこに生活している我々も手痛い目に遭う)。

そこからようやく「この構造は間違っている」という風潮になって、徐々に社会の目指す方角が変わる。

だから、そういった意味では、今はようやくその手痛い目に遭っているのだけど、これほど痛いこととは想像もしなかった。しかもまだはじまったばかり。

漠然とおもっていた“手痛い目”は、それほど深く考えていなかったから楽観的でしかなかった。

体験してみないとモノゴト分からないものだ。

しかし、現在はまさに転換期そのもの。

変わるといっても、いちばん変わらなければいけないのは企業でも行政でもなく、個々人の意識だ。

すべてはそこにかかっているような気がする。

仮に、転換しないでそっくりそのままもとの社会に戻ったのでは意味がない。

しかし、以前のようにモノが売れる世の中にそう簡単に戻る気配はない。

今の人がそっくり入れ替ってしまえば、また以前のような経済がうまくまわる世の中になるかもしれないが、そんなことはありえない。


■先日、ハイヴィジョンでハイティンク指揮コンセルトヘボー管の衛生中継を観た。

アムステルダムでの演奏をリアルタイムで自分の家で見られるとは、なんともステキなことだ。

後半のブルックナーもよかったけど、前半のシューマンのピアノ協奏曲がとてもよかった。

マレイ・ペレイアの熟練したピアノとともにハイティンクとコンセルトヘボーのつくりだす響きはなんともあたたかく、音楽を聴く最上の幸福感に満ちていた。

まったく飾らない実直な演奏のなかに真の音楽がうかがえる。

ハイティンクのこうした指揮は昔から大好きだ。

ハイティンクは番組のインタヴューで、「ブルックナーの9番のような作品は、そうめったに演奏されてはいけない。大切な何かが失われてしまうから・・」と語っていた。

この“大切ななにかが失われる”という言葉に共感した。

ベートーヴェンの『第9』やマーラーの『第9』についても同じことがいえるとのこと。

日本の年末にはどこの市町村でも『第9』は年中行事となっていて、どこにいても“歓喜の歌”が聴こえてくる。

本来はそういう音楽じゃない。

『第9』が安っぽいものに扱われているような、残念さを感じていた。

ハイティンクのような姿勢は、音楽を本当に大切に扱っているからこその言葉だ。



大切なものであるならば、大切に扱わなくてはならない。



じゃんじゃん