■ここ数日ブラ4にはまっている。
家にあるCDを聴きなおしていて、アバド指揮ベルリン・フィル盤とジュリーニ指揮ウィーン・フィル盤が特に心に響く。
第一楽章の展開部などは、絶望的な憤りというか、抑えの効かない激しい感情の噴出といった感じで、そこに自分を投影するように聴きいっている。
ひさびさに全力で音楽を体験している(笑)
今年のウィーン・フィル来日公演にブラ4がちょうどふくまれているので、これ狙いでいこうかな。
■シナリオ学校の帰りは、物語を考えるモードになっているのか、いつもと違う部分の脳が活発にはたらいている。
東京メトロに乗ってると、発想がじゃんじゃんわいてくるので、逃さないようにノートにメモをとりながら帰るというのがいつものパターン。
それと、物語の他にもいろんなことが浮かんでくるので、そういうのはノートのはじに書いておく。
昨日はこんなことを書いていた。
■『視聴率至上主義の限界』
TVドラマの視聴率がのきなみ下がっている。
創り手は視聴者のニーズを探り、TVドラマ回帰に躍起だ。
民放は視聴率中心で番組をつくる。スポンサーとの関係があるからそれは絶対だ。
視聴者離れは、それゆえに内容の薄い番組創りに陥ってしまって現状に嫌気がさしたのか?まともな判断からTVドラマを敬遠し違うことに関心が向かっているのか?
それとも、TVドラマすらも見ないで、もっと安直でさらに薄いモノを求めて離れていったのか?
そこが気になる。
■『コミュニケーションという言葉はどこかまやかしっぽい。人間関係、対人関係というべきでないのか?』
カタカナの聞こえの言い言葉を使うのではなく、直球で意味が伝わる“人間関係”とか“対人関係”と言ったほうがいいとおもった。
【参考:大辞泉より】
社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」
「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。
会社でもそうだけど、「みなさんコミュニケーションをとりましょう!」みたいなことを盛んにいわれる。
「あいさつをしよう!」とか「社会に関心をもとう!」とか。
そもそも、そういうことに関心のない人に、ただ単に言ってみたところで、大して効果は期待できない。
言わないよりマシだろうとおもって言っているのかもしれないが、ほとんど響かないだろう。
だってその人にとって関心があるのはもっと別の次元のモノなのだし、言われることによって逆に反発するかもしれない。
だから、どうせ言うなら、なぜコミュニケーションが必要なのか。自分はこういう考え、危機感を抱いている。コミュニケーションをとるというのは、そういう危機からの改善に繋がる、とか、その人が本当に考えている深い思考を表さないといけない。
その考えに共感できるのであれば、「あ、そっか!コミュニケーションって必要なんだな」って初めてその人間が思うようになるだろう。
それでも気がつく人はほんのわずかだとおもう。
それほど人を変えるのは難しいし、個人ってそれほど変わらないものだ。
反対に、伝える側の人間にしっかりした考えがないと、言ってもなんにも響かない。
別に他人に感心を持とうか、持つまいが、そこは個人の自由な域だ。
ちゃんと世の中を見て考えているヤツはおのずからコミュニケーションの大切さは知っているものだし、真剣に社会のことを考えて行動している。
なにも言わなくとも本人はよく知っていて、努力している。
だから、言うことの意味がほとんどないと思うのだ。
これは、ちゃんとご飯を食べましょう。ちゃんと歯を磨いて寝ましょう。ちゃんと息をすいましょう。といった子どもに言い聞かせるのと同じレヴェルでしかない。
言われるほうはたまったもんじゃない。
なんで今の社会はそういうことを盛んに言うのだろうか。
出来ていないからという観点からだろうけど、それではあまりに安直な策ではないか?
■『周囲が真面目だとバカをやりたくなる。周囲がバカだとしっかりしたくなる。結局オレも周囲を気にしているんだ。それもかなり』
これは個人的なメモでした^^;
今週はこんな感じです!
じゃんじゃん♪
家にあるCDを聴きなおしていて、アバド指揮ベルリン・フィル盤とジュリーニ指揮ウィーン・フィル盤が特に心に響く。
第一楽章の展開部などは、絶望的な憤りというか、抑えの効かない激しい感情の噴出といった感じで、そこに自分を投影するように聴きいっている。
ひさびさに全力で音楽を体験している(笑)
今年のウィーン・フィル来日公演にブラ4がちょうどふくまれているので、これ狙いでいこうかな。
■シナリオ学校の帰りは、物語を考えるモードになっているのか、いつもと違う部分の脳が活発にはたらいている。
東京メトロに乗ってると、発想がじゃんじゃんわいてくるので、逃さないようにノートにメモをとりながら帰るというのがいつものパターン。
それと、物語の他にもいろんなことが浮かんでくるので、そういうのはノートのはじに書いておく。
昨日はこんなことを書いていた。
■『視聴率至上主義の限界』
TVドラマの視聴率がのきなみ下がっている。
創り手は視聴者のニーズを探り、TVドラマ回帰に躍起だ。
民放は視聴率中心で番組をつくる。スポンサーとの関係があるからそれは絶対だ。
視聴者離れは、それゆえに内容の薄い番組創りに陥ってしまって現状に嫌気がさしたのか?まともな判断からTVドラマを敬遠し違うことに関心が向かっているのか?
それとも、TVドラマすらも見ないで、もっと安直でさらに薄いモノを求めて離れていったのか?
そこが気になる。
■『コミュニケーションという言葉はどこかまやかしっぽい。人間関係、対人関係というべきでないのか?』
カタカナの聞こえの言い言葉を使うのではなく、直球で意味が伝わる“人間関係”とか“対人関係”と言ったほうがいいとおもった。
【参考:大辞泉より】
社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」
「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。
会社でもそうだけど、「みなさんコミュニケーションをとりましょう!」みたいなことを盛んにいわれる。
「あいさつをしよう!」とか「社会に関心をもとう!」とか。
そもそも、そういうことに関心のない人に、ただ単に言ってみたところで、大して効果は期待できない。
言わないよりマシだろうとおもって言っているのかもしれないが、ほとんど響かないだろう。
だってその人にとって関心があるのはもっと別の次元のモノなのだし、言われることによって逆に反発するかもしれない。
だから、どうせ言うなら、なぜコミュニケーションが必要なのか。自分はこういう考え、危機感を抱いている。コミュニケーションをとるというのは、そういう危機からの改善に繋がる、とか、その人が本当に考えている深い思考を表さないといけない。
その考えに共感できるのであれば、「あ、そっか!コミュニケーションって必要なんだな」って初めてその人間が思うようになるだろう。
それでも気がつく人はほんのわずかだとおもう。
それほど人を変えるのは難しいし、個人ってそれほど変わらないものだ。
反対に、伝える側の人間にしっかりした考えがないと、言ってもなんにも響かない。
別に他人に感心を持とうか、持つまいが、そこは個人の自由な域だ。
ちゃんと世の中を見て考えているヤツはおのずからコミュニケーションの大切さは知っているものだし、真剣に社会のことを考えて行動している。
なにも言わなくとも本人はよく知っていて、努力している。
だから、言うことの意味がほとんどないと思うのだ。
これは、ちゃんとご飯を食べましょう。ちゃんと歯を磨いて寝ましょう。ちゃんと息をすいましょう。といった子どもに言い聞かせるのと同じレヴェルでしかない。
言われるほうはたまったもんじゃない。
なんで今の社会はそういうことを盛んに言うのだろうか。
出来ていないからという観点からだろうけど、それではあまりに安直な策ではないか?
■『周囲が真面目だとバカをやりたくなる。周囲がバカだとしっかりしたくなる。結局オレも周囲を気にしているんだ。それもかなり』
これは個人的なメモでした^^;
今週はこんな感じです!
じゃんじゃん♪