■昨夜、作家・辺見庸さんの番組(ETV特集)をみた。

辺見さんの書かれた本はこれまでたくさん読んできたけど、ご本人を拝見するのは今回はじめて。

一時は倒れてたいへんな状態だったけど、元気になられてほんとうによかった。


この番組では特に2つのことが印象にのこった。

■1つは、自分もずっと思い続けてきたことで、人と科学技術発展の相互関係について「人の生体が現代に追いついていないのでは」という彼の仮説。

まさに、そうだとおもう。

“巧みなコーティングで虚像を実像のように見せる”資本最優先主義の歪んだ現代社会の大きな1つの要因は、まさにこのことなんじゃないか。

人間をはじめあらゆる生き物は環境の激変に対応して生き延びてきている。

そういう変化に対応できる優れた能力は人間も十分に持っている。

しかし、あまりにも急速な科学技術発展でつくりあげられた今の世の中は、人の対応能力の限界をとんでもなく超えてしまっていないか?という推察。

しかもたった今もその動きは停滞しないばかりか加速している。


学生のころに思ったものだ。

10数時間飛行機に乗っているだけで、まったく環境の違う外国に行けることは、それまでの人類が体験したことがない“異常”なことで、そういう移動体験は体内のどこかに無理がかかっていないか?と

鳥は、自身の長い進化の努力を経て大陸間を飛べるようになった。

鳥ははじめっからそんなに長距離を飛べたわけじゃない。

徐々に長い距離を飛べるように進化した。

とっても長い時をえて・・

その長い時の間に生体(DNAとか)も無理なく追いついていった。


しかし、人類は科学技術発展が大幅に先行してしまい、生体の進化がまるで間に合わなかった。

表面的には、人はどんな最先端の道具をなんでもなく使いこなせて、なんの問題もなく生活しているようだけど、内面の神経や体内のどこかでは対応できずにいる。

そういう重なりがいろんな弊害をうんでいる。

・・そういうことなんじゃないか、と考えてきた。


そしてそういう弊害は、あまり決まり事が無く、なんでも有り!の日本のような国では特にでてきている。

あまり好きな考えじゃないけど、なんかしらの規制や使用方法を決めたほうがいいんじゃないか、とすらおもう。


会社にいてもたまに違和を感じる。

以前と違って社員同士はフロアーが違うだけでほとんど交流がなくなっている。

久々に会って「おまえ久しぶりだな!元気か?」って言うのもなんか変な感じだ。

仕事のほとんどがパソコンでやるようになって、会って会話をする必要がなくなったとともに、黙ってパチパチとキーボードを叩く時間が多い。

二日酔いのときは誰とも話したくないからいいけど、たまに一歩引いてみると、かなり不気味で無機質な事務所だなぁ、とおもう。

これではそれまであった人の交流がなくなるのは当たりまえだ。

それでも意識して話そうとしているのだが「なんだかなぁ・・」だ。

かといって、あまりそこを意識しすぎると働くことが難しくなるかもしれないから、今は、放っておいている・・


■もう1つは、作家という存在について。

辺見さんは言っていた。

「今のこの時代を、かつての往年の作家が存命だったら、どんなふうにみて、どんな表現をするのだろう・・」

作家と言うのは、時代とともに生きて、それを自分なりに分析・組み立てていろんな表現をするもの。

そういう思想をもって創造するのは言うまでもない当然のこと。

自分が作家になるとかそういうことではなく、モノを書くというのはその辺の精神と切れてはいけない。

どんな物語を書くんでも、時代と関係のないものは書きたくないとおもった。


■それとこの番組とは違うけど、最近こうもおもっている。

「夢をもってそれを実現することが人間にはいちばんだ。だからみんな自分なりの夢をみつけて実現にむかってほしい」と言うのをよく聞くが、「これぞ自分の夢だ!」なんてことはそう簡単に見つかるものでないし、一生見つからない人だってフツウにいる。

別に無理して見つけなくてもいいんじゃないのか。

そんな“夢の実現”が人生の目的ではなく、


なにかを創造しつづけること、その継続的な行動にこそ最も重要な意味があるのでは。

と、ふとおもう。

創造をすることは、人を活き活きとさせる。

創造には終着はない。終わりなき理想を追い求め続ける。

ここには勝者も敗者もいない。

カラヤンも理想の音楽を求めつづけて、その探求には終わりはなかった。

だから“夢の実現”という大きなものでなく、もっと気軽に考えて、追い続けることができる何かが見つかればいいんじゃないか。

まあ、それが夢だと言われてしまえばそれまでだけど・・



じゃんじゃん!!