ざっくり系の文章ですんません!
■電車内の人を見ると、けっこうみんな疲れているのか、座っている人は眠っている人が多い。
俺も眠るために座ることがあるが、あれはよく眠れるものだ。
で、立っている人は、ケータイかゲームが主流。
ケータイの人もメールでもやってんのかなとおもって見るとゲームだったりする。
たまにおもうのだけど、いま、ケータイとゲームがなかったらこの人たちはいったい何をしているのだろうか?と
ちょっと前の時代を思い返すと、電車内の大人たちは週刊誌やマンガ、スポーツ新聞を読んだりしていた気がする(最近はマンガすら読んでいる人もあまりみかけない。)
「俺も大人になったら週刊誌を読むようになるのだろうか?」と高校生のときに漠然とおもったものだ。
その時代は大人が電車でマンガを読むのはみっともないと言われていた。
別に大人でも本人が読みたいのであればマンガを読んでも構わないんじゃないか、と俺はおもっていた。
そういう俺がガキのころは『少年サンデー』を愛読していて、毎週水曜日の発売日が待ち遠しかったものだ。
本を読むようになったのはそれからずっと後のこと。
まあ、それはさておき、もし現代にゲームとケータイが無ければ、相変わらず週刊誌やスポーツ新聞に人気が集まっていたのだろう。
とって変わって登場したゲームやケータイは、娯楽と暇つぶしの勝者であるとともに、さらに情報取得や簡易コミュニティーなどの付加価値もあって圧倒的な人気を得ただけなのだろう。
より楽しいオモチャを人々は手にしたわけだ。
“活字離れ”だとしばらく前から言われているが、現在はもっと加速していて“活字無し”みたいなものかもしれない。
優れた書き手が書いた文章を読むと、それがそのまま自分の体内に取り入れられてなんだか内面が成長したような、そんな感覚になる。
大江健三郎さんの書かれた文章を読むとまさにそんなかんじ。
共感したり感動したほとんどの文章のことは忘れてしまうが、深い記憶の部分ではいつまでも消えないで残っていてほしいと願っている。
新聞は、あれだけの情報を簡素に誰にでも解りやすくまとめてあるので、読むことによって考えをうまく纏められる能力が身につく。
友人とのなんてことない会話でも自然と文章構成ができるので、自分の考えを伝えたいとおりにしゃべることができる。
優れた文章に接するとそういう大切な能力がつくのだ。
数日前の新聞の投書欄の記事によると、北欧では電車に乗っている人の多くは、分厚い本を真剣に読んでいるそうだ。
分厚い本だから良い、というわけではないが、日本とはずいぶん環境が違うなとおもった。
(現代の子ども達は、大人のケータイ・ゲーム漬けの光景を目の当たりにしている。「自分の将来は今と変わらない。ゲームとケータイをやる大人でしかないのか」と観察しているのだろう)。
日本の事情は「仕事で疲れきっていてそんな難しい本なんか読んでいる余裕はない」ということかもしれないが、そもそもそんなに疲れるまで働くことはないんじゃないか(そもそも、いろんな知識を習得したいという欲求すらなくなっているかもしれない)。
人生の大切な時間を大幅に削って精魂疲れきるほど働くのは、根本的に何かが間違っているとずっとおもっている。
この原因は、国の取り組みが間違っているのか、それとも人々の意識、思考が盲目になってしまったのか、または、されてしまっているのか。
「みなさん、生活の維持・向上のためなんだから仕方ないんですよ。ここは我慢して身を粉にして働かなければ、楽しい生活は出来ませんよ」と思い込まされている気がする。
“仕事をすること”と“自分の人生を生きる”というバランスがこの国は極端に悪い。
新聞といえば、今朝の読売新聞の文化面に望月京さんが書かれた『音楽季評』という記事がある。
とっても共感できることが書かれていて、うれしくなった。
ぜひ読んでいただきたい文章だ。
じゃんじゃん
■電車内の人を見ると、けっこうみんな疲れているのか、座っている人は眠っている人が多い。
俺も眠るために座ることがあるが、あれはよく眠れるものだ。
で、立っている人は、ケータイかゲームが主流。
ケータイの人もメールでもやってんのかなとおもって見るとゲームだったりする。
たまにおもうのだけど、いま、ケータイとゲームがなかったらこの人たちはいったい何をしているのだろうか?と
ちょっと前の時代を思い返すと、電車内の大人たちは週刊誌やマンガ、スポーツ新聞を読んだりしていた気がする(最近はマンガすら読んでいる人もあまりみかけない。)
「俺も大人になったら週刊誌を読むようになるのだろうか?」と高校生のときに漠然とおもったものだ。
その時代は大人が電車でマンガを読むのはみっともないと言われていた。
別に大人でも本人が読みたいのであればマンガを読んでも構わないんじゃないか、と俺はおもっていた。
そういう俺がガキのころは『少年サンデー』を愛読していて、毎週水曜日の発売日が待ち遠しかったものだ。
本を読むようになったのはそれからずっと後のこと。
まあ、それはさておき、もし現代にゲームとケータイが無ければ、相変わらず週刊誌やスポーツ新聞に人気が集まっていたのだろう。
とって変わって登場したゲームやケータイは、娯楽と暇つぶしの勝者であるとともに、さらに情報取得や簡易コミュニティーなどの付加価値もあって圧倒的な人気を得ただけなのだろう。
より楽しいオモチャを人々は手にしたわけだ。
“活字離れ”だとしばらく前から言われているが、現在はもっと加速していて“活字無し”みたいなものかもしれない。
優れた書き手が書いた文章を読むと、それがそのまま自分の体内に取り入れられてなんだか内面が成長したような、そんな感覚になる。
大江健三郎さんの書かれた文章を読むとまさにそんなかんじ。
共感したり感動したほとんどの文章のことは忘れてしまうが、深い記憶の部分ではいつまでも消えないで残っていてほしいと願っている。
新聞は、あれだけの情報を簡素に誰にでも解りやすくまとめてあるので、読むことによって考えをうまく纏められる能力が身につく。
友人とのなんてことない会話でも自然と文章構成ができるので、自分の考えを伝えたいとおりにしゃべることができる。
優れた文章に接するとそういう大切な能力がつくのだ。
数日前の新聞の投書欄の記事によると、北欧では電車に乗っている人の多くは、分厚い本を真剣に読んでいるそうだ。
分厚い本だから良い、というわけではないが、日本とはずいぶん環境が違うなとおもった。
(現代の子ども達は、大人のケータイ・ゲーム漬けの光景を目の当たりにしている。「自分の将来は今と変わらない。ゲームとケータイをやる大人でしかないのか」と観察しているのだろう)。
日本の事情は「仕事で疲れきっていてそんな難しい本なんか読んでいる余裕はない」ということかもしれないが、そもそもそんなに疲れるまで働くことはないんじゃないか(そもそも、いろんな知識を習得したいという欲求すらなくなっているかもしれない)。
人生の大切な時間を大幅に削って精魂疲れきるほど働くのは、根本的に何かが間違っているとずっとおもっている。
この原因は、国の取り組みが間違っているのか、それとも人々の意識、思考が盲目になってしまったのか、または、されてしまっているのか。
「みなさん、生活の維持・向上のためなんだから仕方ないんですよ。ここは我慢して身を粉にして働かなければ、楽しい生活は出来ませんよ」と思い込まされている気がする。
“仕事をすること”と“自分の人生を生きる”というバランスがこの国は極端に悪い。
新聞といえば、今朝の読売新聞の文化面に望月京さんが書かれた『音楽季評』という記事がある。
とっても共感できることが書かれていて、うれしくなった。
ぜひ読んでいただきたい文章だ。
じゃんじゃん