
映画『どですかでん』は、ゴミの街に暮らす貧しい人々の日常をえがいているが、そのストーリーは生半可なもんじゃない。
どのキャラクターもえらく濃く、各エピソードは厳しく深い。
登場人物の表情はなかなか忘れがたい、というか、忘れることができない。
そのなかの1人、不幸な境遇で暮らすおとなしい性格の勝子は、ある事件がきっかけで唯一の分かりあえる青年を包丁で刺してしまう。
時は経って「かっちゃん、どうしてあんなことしたんだ?」というその青年の問いに勝子は
「・・なんであんなことをしてしまったかはうまく言えない。・・ただ、あなたの記憶から私のことが忘れ去られてしまうことが怖かったから・・」と小さな声でやっと言う。
大切な相手の記憶に残ってほしい自分の想い出。
また、あるエピソードでは、なんの希望も失くしたおじいちゃんが「もう死にたい」とある老人の家に相談にくる。
「現実には何もたのしいことはない。ただ夢の中だけは、今は亡き家族とのたのしかった頃の夢をみる。毎晩そういう楽しい夢を見るのだけが生きがい」と。
それを聴いた老人は、「あなたが死んだら、その想い出に生きている家族も死ぬことになるけど、それでもいいんですか?」と言う。そうして遠まわしに説得する。
人の心に生き続ける想いは、はかないけど、それはある意味確実に生きている。
そもそも生きているということ自体は現実なんだけど、その現実って一体なんなんだろう?
自分の存在は、自分を知っている人達の記憶のなかでだけ生きているともとれないか?とたまに思ったりする。
現実は実は夢で、夢が現実のような逆転現象。
そんなことはないのだろうけど、それだけ想い出ということは人にとって大きなことかもしれない。
この映画『どですかでん』は、山本周五郎さんの小説を黒澤明監督が撮ったもので、僕は今回はじめて見た。
周五郎作品の主題である、“人間という深くて時には不可解な存在の多様性”をいくつかのエピソードで描いている。
それを黒澤さんが力強い演出で撮りきった傑作。
見終わって心がスッとした。それになんだか気持ちが楽になった。
数々のやさしいエピソードが心に染みたせいかもしれない。
もしくは、この映画ではどんな人生でも肯定も否定もしないでそのまま受け入れる。
そういう懐の大きさ、やさしさ、からくるのかもしれない。
黒澤作品でまだ観ていなかったのは、この『どですかでん』と『続・姿三四郎』『デルス・ウザーラ』だけだった。
その他の作品は高校時代にかなりはまって、映画好きの連中とよく浅草に行ってオールナイトで観たものだ。
当時、はじめて観る黒澤作品の衝撃はすごいもので、高校のときは骨の髄まで黒澤さんの映画が染みわたっているような感覚だった
(当時、キャップラ、ヒッチコックやビリー・ワイルダー、ウィリアム・ワイラー等をはじめとする30~50年代のアメリカ映画のリバイバルを名画館で上映していた。二本立で600円くらいだったから高校生でも学校帰りに見ることができた。今ではこういう作品はNHK-BSくらいしか観ることができないので、僕はつくづくラッキーな時代にいたものだとおもう。今の自分の人格形成に大きく影響しているから)
しかし、何度も観ているうちに当たり前だがその衝撃は薄くなっていく。
はじめに観たときの新鮮さがなっていくのが、寂しいものだった。
だから自分の記憶から黒澤映画の記憶をなくし、まっさらな状態でまた観てみたいと思っていたものだ。
さっきの“大切な記憶・・”とは違って、今度は無くしたい記憶という、ね(笑)
久しぶりに黒澤さんの“新作”を観ることができてラッキーでした^^
じゃんじゃん!