
今回のサイモン・ラトルとベルリン・フィルのコンサートはすばらしく良かった、ようやく、彼等のいいところが実演で聴けた、という余韻。
■まず、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第92番『オックスフォード』
小編成のオケでヴァイオリンは左右両翼というラトルが拘る配置。
久しぶりに見たラトルは、非常に元気そう。
たしか50代半ばだから油が乗りきっていることだろう(って鯖か?)
今回僕がもっとも期待していたのはこの曲。
ハイドンの交響曲は昔から好きで、しかもラトル指揮のハイドンはめりはりが強く、底抜けに明るく、また深刻であったり、とにかくエキサイティングな演奏をする。
CDでもラトルの『92番』は最高にすばらしく、それを実演で聴けるというチャンスは今回しかない。
しかし、第一楽章と続く第二楽章では、どうも心に入ってこない・・
これはまだ僕が期待で高ぶりすぎて音楽を正当に聴く準備ができていなかったからか、奏者がいまいち乗れてなかったのか?わからないが、「今回もやばいかも・・」と
心なしかラトルの指揮もちょっと慎重に見えた。
注目だった第二楽章のティンパニの強打と管弦楽のffの部分では、鋭さがちょっとずれていて充実が感じられなかった・・
しかし、第三楽章からCD録音時よりもテンポを上げて演奏し、一気に乗ってきた。
ラトルの動きも大きく柔軟に!
こうなると聴いていてニヤけてしまう^^
やっとラトルのハイドンの真骨頂が正体をあらわした。
エキサイティングなハイドンだった。
■次はグスタフ・マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』
Pブロックは歌曲の際は厳しい。歌手が真後ろを向いてしまうので、じかに歌声がきこえない。
しかしラトルの指揮が正面から見えるからやっぱりこの席がいい^^
ブーレーズ指揮ウィーン・フィル盤とは順番を変えて演奏していた。
しかし、このときのオケの表現のすばらしかったこと!
静寂というか、マーラーの繊細でデリケートでロマンチックな部分をじつにたくみに表現していく、弦と木管の継ぎ目なんか感じさせない自然な移行。
しっとりと溶け合っている。
彼等でマーラーの交響曲を聴いてみたくなった。
第2番『復活』を!
■そしてL・V・ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』
これは言葉にするのは大変だ。
さて、どうしよう。
オケの編成はハイドンより若干大きい程度。
サウンドはそれまでの2曲とは色彩が微妙に変わり、一本の太い蔓(つる)のようなイメージを連想した(よい演奏は“1つの音”に聴こえてくる)。自信に満ちた演奏だ。
第一楽章の“田舎に着いたときの高揚感”などは本当にそのとおりの演奏で、明るく輝かしい。
はじめ、バスの低弦が鳴りすぎて「バランスが悪くないか?」と思ったけど(座った席も万全とは言えないから、それも仕方ない)が、そのうちだんだん違和感がなくなってきて、「そうか、この低弦の重量感がベートーヴェン的だな」と思いあらためた。
今さらながら『田園』ってこんなに素晴らしい音楽だったんだ・・・と知る。
それは、即自分がベートーヴェンのことを分かっていなかったという焦りになった。
ベートーヴェンの音楽は何年間も聴いてきているのに、まだほんの一部分しか知らなかったという、ね(そりゃそう簡単に分かるわけないわな^^;)。
まだまだ研究していかないと!
第二楽章のとんでもない美しさ(こんな簡単な言葉でしか表現できないのがもどかしい!)は去年のヤンソンスとバイエルンで聴いたメンデルスゾーンと同じくらいで、これ以上の幸福感は絶対にありえない!!と思いながら浸っていた。
ここが今回もっとも感銘をうけた。
いつまでも浸っていたかった・・・
第三楽章と第四楽章は、表面的な効果をねらったものではなく、お祭りの開放感と大自然の嵐。
ここもニヤケけっぱなしで、音楽を聴くことと最大の喜びを感じた。
終楽章も幸福感いっぱいの響きで、終わりが近づくのを本当に淋しくおもった。
最期の和音が鳴り、残響がまだ残っているうちに拍手がはじまってしまった(これについては後ほど)。
それにしても(ウィーン・フィルとはまったく違うやり方で)オーケストラ演奏でここまでの表現はなかなかできないだろう。
この曲は表題音楽ではないが、そういうニュアンスがある曲で、ラトルはテンポをそういう田舎の美しい風景を最大限に描いているようで、ゆっくりと歌う。
しかしオケは透明でこのうえなく最上の響きを聴かせている。
響きといえば、彼等はベートーヴェンの交響曲ではとても相性がいいと感じた。
数年前に聴いたブラームス『2番』はそれが“ブラームス的な響き”に聴こえないで最期まで満たされないでおわった(“ブラームス的な響き”という限定もおかしいかもしれない。これはあくまで個人的な部分でしかない)
今回の公演でのブラームス交響曲チクルスは実際に聴いていないので判断できない。
近々CD発売されるだろうから、そこで聴いてみよう。彼等のブラームスを。
■東京の早すぎる拍手については毎度のことながら余韻を壊されてしまうので残念だ。
そういう人は音楽をちゃんと聴いているのだろうか?
もしかして「ベルリン・フィル=すばらしい演奏」というブランド目線で聴いているからではないか。
音楽を聴いているのではなく「ベルリン・フィル」を聴いているだけにすぎないのでは?
ラトルは言っていた「我々(ベルリン・フィル)は権威でもなんでもない」と。
色目で見られることを嫌う。
でも日本人は色目でみてしまう。
ウィーン・フィルやベルリン・フィルは、演目や指揮者に関係なくチケットが即完売してしまう人気と実力を兼ね備えたオケ(今年のウィーン・フィルのニーノ・ロータはしばらく余っていたが・・)。
彼等の実力に関してはなんども実演を聴いてきてそれはその名のとおりだということはわかる。
しかし現実は、とかく日本人にありがちなブランド志向はクラシック界にもあって、どうもそれがコンサート会場での固っ苦しい風潮をつくったり、正しい目で音楽を見ていないような気がする。
これはもったいないことだ。
ベートーヴェンの素晴らしさをあのような形で表現していても、ベートーヴェンの精神を感じるよりも演奏効果に満足して終わってしまう。
僕は、最終的には作曲家の意思に近づきたいと思って音楽を体験している。
だからあのようなフライング拍手とどんな演奏にもベルリンやウィーンなら「ブラボー!」に繋がるのは、どうも馴染まない。
それでも僕がすわっていたP席は本当に音楽がすきな連中が座っていたらしく、まともなコメントが聞こえてきた。
僕はいつも指揮者で聴くし映画は監督でみる(良い悪いがあるが)。
サイモン・ラトルがどんなオケを指揮してもそれは聴きにいきたいと思う。
反対にベルリン・フィルでも振る指揮者に興味がないと聴きに行こうとは思わない。
作曲家の精神を表現しているか?
オーケストラが上手かろうが、ミスをしようがあまり関係ない。
下手でもなんでもベートーヴェンやマーラーの真髄を感じることができたならそれは幸せなコンサートだったということだ。
だから学生オケでもよく満足していた。
■さて番外編。
終演後はラトルにサインをもらうべく楽屋口に!
と、その前にルービーがどうしても飲みたくて(田園の第三楽章あたりから飲みたい衝動が!)近くのセブンへGO!
キリンのさわやかな新しいレーベルのヤツとラガーを買って、即缶を空けてごくごく・・
ひさしぶりにルービー飲んだけど、うまかったー!!!!
で、そのまま楽屋口に戻る。
途中、コントラバスのよく見かけるオッサンとすれ違ったが、彼はモルツを片手に持っていた^^
最近あんまり飲んでいないからすぐに酔いがまわって、楽屋口に着く頃にはいい心もち。ひっく・・
でも、スタッフによると「マエストロは今日はサインはやらない」との案内。ギャボ・・
なんでも、ラトルはまだ幼い子どもと一緒に来ているから、すぐにホテルに戻りたいとのことらしい。
いいお父さんでいいね^^
って、とりあえず、そんな感じでした!!
じゃんじゃん