シナリオを考えていたら違うことを考え出したので、記事に^^;
■本屋さんや図書館にいくと、だいたい気になる本というのがあって、すぐに買ったり借りたりする。
そうなるとそれまで読んでいた本がいつのまにか目のつきずらい場所においやられて、挫折状態になってしまう。
それでも気持ちのどこかで「あぁ、あの本途中になっているけど、読まないとなぁ」って引っかかってどうもすっきりしない。
そういう本は別におもしろくないからというわけでなく、“新しい本”が気になってしまうだけなのだ。
まあ、こういうのを言い訳というのだろうけど。。。
で、昨日ようやく夏目漱石の「こころ」を読み終わった。
メインで最後の“先生の遺書”が膨大に長く、そこにすべての漱石さんの主張が含まれている。
巻末の解説に「人間の心の研究をしているものはこの小説をよめ」との当時の漱石さんの言葉が紹介されている。自信に溢れている。
まず僕は、この小説は人間の心というものの不可解さと、人間の死についての追求・挑戦である気がした。
小説とは「はい、これが正解です。これが人間の心で、人間の死です」なんで野暮な書き方はしないし、やってほしくもない。
自信がないが、漱石さん自身は「人間の想い?死とは?」と考えながら書きすすんでいったのではないか?
それで想定よりも長い遺書になってしまったのでは?と推察した。
僕の文章理解力が良くないからそんなふうに思うのかもしれないが・・
そのシックリこなさもあって、読み終わったあとは、人間の死についてなんとなく想いをめぐらしている。
続いて読みはじめた辺見庸さんの新しい本も全編死が基調となっているから、そっちの影響もある。
たまには死について考えることは必要だ。
しかもこれは自分だけの死に関することで、まったく関係のない他人を巻き込むような幼稚で身勝手な犯罪者の“死”などとは違う。
■そういえば、このまえ表参道に向う千代田線のなかでこんなことがあった。
車内は土曜のわりには結構混んでいて、僕はシルバーシート前の車両を連結しているドアに寄りかかって本を読んでいた。
僕のすぐ横には高齢のおばあちゃんが同じくドアを背に立っていた(シルバーシートなのに!)。
ほどなくして僕の前に座っている人が駅で降りた。
僕は後ろのおばあちゃんの肩をとんとんと叩いて。
「こっち空きましたよ。どうぞ」と言った。
おばあちゃん「いいの、いいの。座ると腰が痛くってダメなのよ」
僕「え?そうなんですか?腰、悪いんですか?」
おばあちゃん「そうなのよ。もうずっと悪くって・・腰の骨がずれててヘルニアって言われて・・」
僕「ヘルニアですか。それは辛いですね。僕も一度なったことがありましたよ。あれはねー。」
おばあちゃんこのあいだ陽気に笑いながら話していて、周囲の乗客には我々の会話が耳に入っていたことだろう。
そして
おばあちゃん「辛いことばかりでねー・・なかなか死なせてくれなくって・・」
僕「・・そんなぁ寂しいこと言わないで下さい!元気だしてくださいね」
って言ったけど、その言葉は励ますというより自分のなかでは虚しく響いた。
そのあと、おばあちゃんが降りるまで2人とも立ちながら世間話をしていた。
その「なかなか死ねない」という言葉がそれから引っかかっている。
そして漱石さんの『こころ』と辺見庸さんの本。
『こころ』では先生の親友Kが自殺してしまう。
その死の原因は周囲の人にとっては不可解なことであるが、先生だけは“身に覚えがある”
その身に覚えがある死を、先生はまるでKの死に導かれるように追っていくことになるのだ。
小説上ではその後、本当に先生が死んだかどうかは書かれていないし、主人公である“私”も列車に飛び乗ってその後先生宅に行ったのであろうが、その記述も書かれていない。
そんな謎を抱かせたまま終わってしまうから、ますますいろんな事を考えずにはいられない。
この遺書だけはもう一回読んでみようと思っている。
■「死についてどう思うか?」と訊かれたとすればこの瞬間こう答える。
あたりまえだけど死は経験したことがないから怖い。僕自身のことよりも家族や親しい友人に申し訳ないと思ってしまう。そして、こういうことの反面、じつは死にはちょっとだけ安堵を感じている、と。
なんで安堵なんか感じているのか?と自分でもよく分からなかったけど、1つだけ思いつくことがある。
それは“死は真実”だということに気がついたから。
今の世の中の表面には真実めいたところが少ない。
真実なことがない生活なんかないのだけど、極力そこから目を背けがちな傾向があるということで、少ないと(いや、そういう真実のない現在が“真実”だという見方もあるが)。
少なくとも自分自身はそうはなりたくないから、なんでも直視しようと努めてはいるが、これはまだまだ・・
そんな世の中の出来事で、死は嘘偽りもない真実。
誰しも死は誤魔化せない。
そういう意味で、死はこの世で希少な真実なことという理由でどこか安心してしまう。
ただ、これは“生”にもいえる。
だから同時に“生きているということ”にも安堵を感じている。
(ついでに言うと、「生きる意味」をとかく模索しがちだけど、別にそこまでしなくとも良い気もしてきている。生きているだけでそれは真実なことだし、相当“凄いこと”に違いないから!)
でも、そんなこと言っていられるのは自分がまだ死の淵に立たされたことがないから言える“甘ちゃん”な言葉でしかない。
実際に死が目の前にきたら、同じ事をいえる自信はない。いや、絶対に言えるわけがない。
無様なまでに“自分の生”にしがみつく姿を露呈するはずだ。
だから“安堵感”なんてのは、死のことが何んにも分かっていないからこそ言える言葉なのだろう。
グスタフ・マーラーはずっと死の恐怖から逃れられなかった作曲家だった。
彼の交響曲第9番をよく聴く。昨日もバーンスタインの指揮で聴いていた。
最後は安らかな眠りだ。
先に聴いたチャイコフスキーの『悲愴』もそういった類の曲だ。
そういう音楽が心に響くのは“死のテーマ”があるからかもしれない。
どんな作曲家も死がテーマでは、いつにも増して真剣に取り組んで、一音一音に込める意味も違ってくるだろう。
死にはそういう真実もある。
・・とまあ、なんだか暗い話題ですみませんでした。
こういう話題だけど、僕自身はじゃんじゃん生に向かって突き進んでいるのでご心配なく^^
■本屋さんや図書館にいくと、だいたい気になる本というのがあって、すぐに買ったり借りたりする。
そうなるとそれまで読んでいた本がいつのまにか目のつきずらい場所においやられて、挫折状態になってしまう。
それでも気持ちのどこかで「あぁ、あの本途中になっているけど、読まないとなぁ」って引っかかってどうもすっきりしない。
そういう本は別におもしろくないからというわけでなく、“新しい本”が気になってしまうだけなのだ。
まあ、こういうのを言い訳というのだろうけど。。。
で、昨日ようやく夏目漱石の「こころ」を読み終わった。
メインで最後の“先生の遺書”が膨大に長く、そこにすべての漱石さんの主張が含まれている。
巻末の解説に「人間の心の研究をしているものはこの小説をよめ」との当時の漱石さんの言葉が紹介されている。自信に溢れている。
まず僕は、この小説は人間の心というものの不可解さと、人間の死についての追求・挑戦である気がした。
小説とは「はい、これが正解です。これが人間の心で、人間の死です」なんで野暮な書き方はしないし、やってほしくもない。
自信がないが、漱石さん自身は「人間の想い?死とは?」と考えながら書きすすんでいったのではないか?
それで想定よりも長い遺書になってしまったのでは?と推察した。
僕の文章理解力が良くないからそんなふうに思うのかもしれないが・・
そのシックリこなさもあって、読み終わったあとは、人間の死についてなんとなく想いをめぐらしている。
続いて読みはじめた辺見庸さんの新しい本も全編死が基調となっているから、そっちの影響もある。
たまには死について考えることは必要だ。
しかもこれは自分だけの死に関することで、まったく関係のない他人を巻き込むような幼稚で身勝手な犯罪者の“死”などとは違う。
■そういえば、このまえ表参道に向う千代田線のなかでこんなことがあった。
車内は土曜のわりには結構混んでいて、僕はシルバーシート前の車両を連結しているドアに寄りかかって本を読んでいた。
僕のすぐ横には高齢のおばあちゃんが同じくドアを背に立っていた(シルバーシートなのに!)。
ほどなくして僕の前に座っている人が駅で降りた。
僕は後ろのおばあちゃんの肩をとんとんと叩いて。
「こっち空きましたよ。どうぞ」と言った。
おばあちゃん「いいの、いいの。座ると腰が痛くってダメなのよ」
僕「え?そうなんですか?腰、悪いんですか?」
おばあちゃん「そうなのよ。もうずっと悪くって・・腰の骨がずれててヘルニアって言われて・・」
僕「ヘルニアですか。それは辛いですね。僕も一度なったことがありましたよ。あれはねー。」
おばあちゃんこのあいだ陽気に笑いながら話していて、周囲の乗客には我々の会話が耳に入っていたことだろう。
そして
おばあちゃん「辛いことばかりでねー・・なかなか死なせてくれなくって・・」
僕「・・そんなぁ寂しいこと言わないで下さい!元気だしてくださいね」
って言ったけど、その言葉は励ますというより自分のなかでは虚しく響いた。
そのあと、おばあちゃんが降りるまで2人とも立ちながら世間話をしていた。
その「なかなか死ねない」という言葉がそれから引っかかっている。
そして漱石さんの『こころ』と辺見庸さんの本。
『こころ』では先生の親友Kが自殺してしまう。
その死の原因は周囲の人にとっては不可解なことであるが、先生だけは“身に覚えがある”
その身に覚えがある死を、先生はまるでKの死に導かれるように追っていくことになるのだ。
小説上ではその後、本当に先生が死んだかどうかは書かれていないし、主人公である“私”も列車に飛び乗ってその後先生宅に行ったのであろうが、その記述も書かれていない。
そんな謎を抱かせたまま終わってしまうから、ますますいろんな事を考えずにはいられない。
この遺書だけはもう一回読んでみようと思っている。
■「死についてどう思うか?」と訊かれたとすればこの瞬間こう答える。
あたりまえだけど死は経験したことがないから怖い。僕自身のことよりも家族や親しい友人に申し訳ないと思ってしまう。そして、こういうことの反面、じつは死にはちょっとだけ安堵を感じている、と。
なんで安堵なんか感じているのか?と自分でもよく分からなかったけど、1つだけ思いつくことがある。
それは“死は真実”だということに気がついたから。
今の世の中の表面には真実めいたところが少ない。
真実なことがない生活なんかないのだけど、極力そこから目を背けがちな傾向があるということで、少ないと(いや、そういう真実のない現在が“真実”だという見方もあるが)。
少なくとも自分自身はそうはなりたくないから、なんでも直視しようと努めてはいるが、これはまだまだ・・
そんな世の中の出来事で、死は嘘偽りもない真実。
誰しも死は誤魔化せない。
そういう意味で、死はこの世で希少な真実なことという理由でどこか安心してしまう。
ただ、これは“生”にもいえる。
だから同時に“生きているということ”にも安堵を感じている。
(ついでに言うと、「生きる意味」をとかく模索しがちだけど、別にそこまでしなくとも良い気もしてきている。生きているだけでそれは真実なことだし、相当“凄いこと”に違いないから!)
でも、そんなこと言っていられるのは自分がまだ死の淵に立たされたことがないから言える“甘ちゃん”な言葉でしかない。
実際に死が目の前にきたら、同じ事をいえる自信はない。いや、絶対に言えるわけがない。
無様なまでに“自分の生”にしがみつく姿を露呈するはずだ。
だから“安堵感”なんてのは、死のことが何んにも分かっていないからこそ言える言葉なのだろう。
グスタフ・マーラーはずっと死の恐怖から逃れられなかった作曲家だった。
彼の交響曲第9番をよく聴く。昨日もバーンスタインの指揮で聴いていた。
最後は安らかな眠りだ。
先に聴いたチャイコフスキーの『悲愴』もそういった類の曲だ。
そういう音楽が心に響くのは“死のテーマ”があるからかもしれない。
どんな作曲家も死がテーマでは、いつにも増して真剣に取り組んで、一音一音に込める意味も違ってくるだろう。
死にはそういう真実もある。
・・とまあ、なんだか暗い話題ですみませんでした。
こういう話題だけど、僕自身はじゃんじゃん生に向かって突き進んでいるのでご心配なく^^