チェーントークです。
(チェーントークとは、書いているうちにどんどん主題が変わっていくが、シリトリやチェーンのように繋がっている文章のことで、いま造った言葉)
■ABC本店では岡本太郎さんの巨大な傑作『明日の神話』(だっけ?)が渋谷に来るというので太郎さんコーナーが組まれていた。
この近くには岡本太郎記念館もあるから青山一帯は岡本太郎さんのメッカといえる場所だろう。
太郎さんの力のある目にはいつも圧倒される。
多くの本の表紙にはギョロリとこっち(カメラ)を睨んでいる太郎さんの顔が載っているが、その眼光には年齢なんてまったく感じさせない若々しさがある。
それとは対照的にじつに人懐っこい笑顔もよくみせる。
とてもおおきな人だ。
太郎さんは多くの著書も残していて、そのどれもが芸術作品顔負けの闘いに満ちた熱い文章。
闘いといっても、それは人間のための闘いであって、むやみやたらと「革命を!」と叫ぶ陳腐で安易なものではなく、一環した主義に基づいている。
太郎さんは僕に大きな影響をあたえた作家の1人。
今日は久しぶりに太郎さんの文章を目にしたけど、「やっぱりそういうことでいいんだよな」と共感し安心もした。
太郎さんとピカソは圧倒的なパワーの持ち主という点で似ている。
先日サントリー美術館のピカソ展にも行ってきた。
ここでは国立新美術館のピカソ展とは違う印象をうけた。
それはずばり“愛”ということなんだけど、ピカソ作品に共通しているのは深い愛だと感じた。
愛といってもいろいろある。
異性に対する愛や子どもに対する愛などいろいろな瞬間が描かれているが、なんというか“人類全体に対するとてつもなく大きな愛”。そういう心を持っている人なんじゃないかと思った。
で、「そもそも愛とはなんぞや?」という考えに発展していったんだけど、まだよく見えてこないのが実情。
いやそうではなく僕自身もすでにいろんな場面で無意識に愛を体験しているものだと思うが、整理してうまくここで書く域まで見えていない。
マーラーの歌曲にもあったけど、愛するということは、愛するから愛するのであって、そこに付随する理由や言い訳なんてものはないだろう。
こういう直感的なところがいい。
根源的で大切なことには、まわりくどい理由などはいらないのだ。
太郎さんもピカソもアクが強い(人生も考えも作品も)。
僕はどうやらアクの強い芸術が好きみたいで、それは音楽にもいえる。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲でアンネ・ゾフィー・ムターの演奏を聴いた。
彼女の演奏はそれこそ作曲家の意図を超えて自己主張の強さに及びすぎでないか?と思うほど個性が強い。
で、その強い個性がシベリウスやプロコフィエフにはピッタリで、すごく面白い演奏になるのだ。
今日も彼女のヴァイオリンでシベリウスを聴いていた。
そういう演奏を聴いたりピカソを観たりすると自分が書くシナリオにも影響してくるからおもしろい。
昨日は時間をとってアークヒルズでのんびりと構想をねっていたんだけど、どぎつい展開になるストーリーばかり浮かんできた。
それはそれで嫌いじゃないので、今日の宿題はちょっとショッキングな男女の出会いというシーンになった。
また、こうして物語を考えるときはその物語以外にもいろんな考えが浮かんでくるもので、そういうものを忘れないようにノートのはじっこに書いておく。
で、昨日のメモの1つにこんなことが書いてあった。
『悩みや不満の解決の答えはすべて自分のなかにある。不満や物足りなさや虚しさは得てして外的要因だとしがちだけど、すべては自分の内面でのことだ』
なんだか抽象的ですね^^;
いつもは意識していたはずなんだけど、忘れかけてきた。それがまったく違った物語を考えているときに突然その引き出しの扉が開いて前面におしだされ提示された。という具合。
これをかいつまんで言うと
ふとたまに、空虚だな、とか、なんか寂しいな、と思うことがあるんです。
1人で街をあるくのは大好きなんだけど、楽しそうにしゃべりながら歩いている男女とすれ違ったり、仲のいい親子とかの笑顔とかを見かけると、微笑ましいなぁと思うのだけど、その反面、寂しさをおぼえることがたまにある。
なんで、そんなふうに思うのかはよく分からないけど、どこか人間関係に満足していない自分がいるのか、または人間なんてそんなもので、そういう場合えてしてそんな心境になるものだ、ということかもしれないな、と。
で、これがさっきの文章に繋がるのだけど。
どういうことかというと、そんなふうにどこか満たされない寂しい心境になることの要因は「外が」ではなく、自分の内面に原因があるのではないか。
どこか不安定な状態だったり、宿題もやっていない焦りや、思ったように事が運ばない苛立ちとか、そういう自己解決ができていないがためのマイナス的な気持ちからくるのでは?
だから、外のせいにしてはなんの解決も期待できないから、これはいっちょ自分を鍛えなければならないぞ!となって、読みかけの本を読みだしたり、物語ももっともっとおもしろいものを書くぞ!と気合を入れる。
それを実行するためには、自分の頭をクリアーにして創作意欲に満ちている状態にしておきたい。
最近は酒を飲んでも二日酔いが酷くて翌日はほとんど死んでるんですわ。
それでは創作意欲もなにもあったもんじゃなくて、極端に言えば単に呼吸して生きているだけの状態になってる^^;
だからしばらくは酒も考えながら飲まないといけないなぁ、と。
家では飲んでもたかが知れているから気にしないで飲むが、外だとちょっと気をつけて飲む時期なんだろうな。
ってなチェーントークでした!
じゃんじゃん♪
(チェーントークとは、書いているうちにどんどん主題が変わっていくが、シリトリやチェーンのように繋がっている文章のことで、いま造った言葉)
■ABC本店では岡本太郎さんの巨大な傑作『明日の神話』(だっけ?)が渋谷に来るというので太郎さんコーナーが組まれていた。
この近くには岡本太郎記念館もあるから青山一帯は岡本太郎さんのメッカといえる場所だろう。
太郎さんの力のある目にはいつも圧倒される。
多くの本の表紙にはギョロリとこっち(カメラ)を睨んでいる太郎さんの顔が載っているが、その眼光には年齢なんてまったく感じさせない若々しさがある。
それとは対照的にじつに人懐っこい笑顔もよくみせる。
とてもおおきな人だ。
太郎さんは多くの著書も残していて、そのどれもが芸術作品顔負けの闘いに満ちた熱い文章。
闘いといっても、それは人間のための闘いであって、むやみやたらと「革命を!」と叫ぶ陳腐で安易なものではなく、一環した主義に基づいている。
太郎さんは僕に大きな影響をあたえた作家の1人。
今日は久しぶりに太郎さんの文章を目にしたけど、「やっぱりそういうことでいいんだよな」と共感し安心もした。
太郎さんとピカソは圧倒的なパワーの持ち主という点で似ている。
先日サントリー美術館のピカソ展にも行ってきた。
ここでは国立新美術館のピカソ展とは違う印象をうけた。
それはずばり“愛”ということなんだけど、ピカソ作品に共通しているのは深い愛だと感じた。
愛といってもいろいろある。
異性に対する愛や子どもに対する愛などいろいろな瞬間が描かれているが、なんというか“人類全体に対するとてつもなく大きな愛”。そういう心を持っている人なんじゃないかと思った。
で、「そもそも愛とはなんぞや?」という考えに発展していったんだけど、まだよく見えてこないのが実情。
いやそうではなく僕自身もすでにいろんな場面で無意識に愛を体験しているものだと思うが、整理してうまくここで書く域まで見えていない。
マーラーの歌曲にもあったけど、愛するということは、愛するから愛するのであって、そこに付随する理由や言い訳なんてものはないだろう。
こういう直感的なところがいい。
根源的で大切なことには、まわりくどい理由などはいらないのだ。
太郎さんもピカソもアクが強い(人生も考えも作品も)。
僕はどうやらアクの強い芸術が好きみたいで、それは音楽にもいえる。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲でアンネ・ゾフィー・ムターの演奏を聴いた。
彼女の演奏はそれこそ作曲家の意図を超えて自己主張の強さに及びすぎでないか?と思うほど個性が強い。
で、その強い個性がシベリウスやプロコフィエフにはピッタリで、すごく面白い演奏になるのだ。
今日も彼女のヴァイオリンでシベリウスを聴いていた。
そういう演奏を聴いたりピカソを観たりすると自分が書くシナリオにも影響してくるからおもしろい。
昨日は時間をとってアークヒルズでのんびりと構想をねっていたんだけど、どぎつい展開になるストーリーばかり浮かんできた。
それはそれで嫌いじゃないので、今日の宿題はちょっとショッキングな男女の出会いというシーンになった。
また、こうして物語を考えるときはその物語以外にもいろんな考えが浮かんでくるもので、そういうものを忘れないようにノートのはじっこに書いておく。
で、昨日のメモの1つにこんなことが書いてあった。
『悩みや不満の解決の答えはすべて自分のなかにある。不満や物足りなさや虚しさは得てして外的要因だとしがちだけど、すべては自分の内面でのことだ』
なんだか抽象的ですね^^;
いつもは意識していたはずなんだけど、忘れかけてきた。それがまったく違った物語を考えているときに突然その引き出しの扉が開いて前面におしだされ提示された。という具合。
これをかいつまんで言うと
ふとたまに、空虚だな、とか、なんか寂しいな、と思うことがあるんです。
1人で街をあるくのは大好きなんだけど、楽しそうにしゃべりながら歩いている男女とすれ違ったり、仲のいい親子とかの笑顔とかを見かけると、微笑ましいなぁと思うのだけど、その反面、寂しさをおぼえることがたまにある。
なんで、そんなふうに思うのかはよく分からないけど、どこか人間関係に満足していない自分がいるのか、または人間なんてそんなもので、そういう場合えてしてそんな心境になるものだ、ということかもしれないな、と。
で、これがさっきの文章に繋がるのだけど。
どういうことかというと、そんなふうにどこか満たされない寂しい心境になることの要因は「外が」ではなく、自分の内面に原因があるのではないか。
どこか不安定な状態だったり、宿題もやっていない焦りや、思ったように事が運ばない苛立ちとか、そういう自己解決ができていないがためのマイナス的な気持ちからくるのでは?
だから、外のせいにしてはなんの解決も期待できないから、これはいっちょ自分を鍛えなければならないぞ!となって、読みかけの本を読みだしたり、物語ももっともっとおもしろいものを書くぞ!と気合を入れる。
それを実行するためには、自分の頭をクリアーにして創作意欲に満ちている状態にしておきたい。
最近は酒を飲んでも二日酔いが酷くて翌日はほとんど死んでるんですわ。
それでは創作意欲もなにもあったもんじゃなくて、極端に言えば単に呼吸して生きているだけの状態になってる^^;
だからしばらくは酒も考えながら飲まないといけないなぁ、と。
家では飲んでもたかが知れているから気にしないで飲むが、外だとちょっと気をつけて飲む時期なんだろうな。
ってなチェーントークでした!
じゃんじゃん♪