ちょーざっくり文章です!
■今朝、ジャン・シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いていた。
たぶん先日みた『北京ヴァイオリン』の影響もあって、だいすきなこの協奏曲のMDを選んだのだろう。
演奏はマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響の現地でのライヴ録音(肝心のソリストを忘れた・・)。
この演奏はすっごく生気に満ちており、終楽章をこんなに高揚感をもって聴けることはそうはない。
シベリウスは本当にすばらしい曲を書いたものだ。
で、これを聴いていて思ったことがあった(またしても!^^;)。
最近、運転していて以前はあまり見なかった危ないシーンを見かける。
信号無視を“無意識”にやってしまう車。
意識的にやる確信犯ならまだ事故の可能性は低いが、無意識にやられると大事故の可能性がでかい。
まきぞいにあったら目もあてられない。
これは注意力の緩慢というハッキリした理由だけではない。
人間として存在できている大事な部品の一つが欠落してしまっているかのような想像をした。
それとその人間自身の内面の変化。
あらゆる世代に“こだわり”がなくなってきて単に楽しくラクに生きているだけで満足といったような意識の侵食。
これはまだ実態がよくわからないからあくまで感覚でしかないのだけど、
たまに「この男はこんなにも考えがなく、こだわりもなくよく生きてこれたものだ。それに、これまでの人生で100%の満足感を得ていると言っているが、そんなもんなのか?」という不可解さ。
(人の人生なんてそれぞれが決めて、そいつが満足なら満足であって、何もオレが口を挟むことではないことは知っている。それでも口を挟みたくなるのだ。オレはおせっかいな人間だ。)
今のは一例だけど、人間の意識や心の崩壊がじわじわおこっているような気がしている。
みんなには気づかれないで、ゆっくりと浸透していく・・
要因としてよく取りあげられるメディアの影響や簡単に夢や希望が見つけられない停滞気味の世の中、ということより、もっと深い部分からの“ぐらつき”ではないか。
男と話していて手応えが感じられないという女性の嘆きを聞くが、この傾向はオレもあるとおもう。
大雑把にいえば男の方の薄っぺらさは深刻だ。
女性の方がまだ考えをもっている。
これは男女の根本的な構造が違うとところからきているのだろうが、大丈夫か?男は?右にならえばかりではなにも醸成されない。
それに、男女がお互いに満足する部分は違うからかもしれない。
女性は自分の話をちゃんと共感・理解してもらえる相手を望んでいるかもしれないし、男はそうではなく表面的な部分でやすらぎを与えてくれる人とか、会話はそれほどしなくとも安泰でいたいとか、料理が上手であるとか、一時は愛し合ってもあとはちょっと面倒だな・・とか、そんな相違はいろいろあろう。
それでも、なんなんだろうか?とおもう。
いや、そもそも生き物としての観点からみるとそういうものかもしれない。
これはもちろん全員ではない。そういう傾向がうかがえるということだ。
■今朝の読売新聞にドナルド・キーンさんの音楽評がのっている。
先に来日したウィーン国立歌劇場のことで、小澤さんが指揮した『フィデリオ』を観て、「ベートーヴェンの偉大さを感じたオーケストラ(演奏)」だったと感心していた。
こういう評を読むと無理してでもチケットを入手すればよかったなぁと後悔してしまう^^;
(キーンさんも小澤さんと同じく今年文化勲章が贈られている)
そのドナルド・キーンさんが書かれた『私と20世紀のクロニクル』という本を読んでいる。
キーンさんの文章もたいへん充実した文章でどのエピソードもおもしろくとても勉強になる。
■今朝、ジャン・シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いていた。
たぶん先日みた『北京ヴァイオリン』の影響もあって、だいすきなこの協奏曲のMDを選んだのだろう。
演奏はマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響の現地でのライヴ録音(肝心のソリストを忘れた・・)。
この演奏はすっごく生気に満ちており、終楽章をこんなに高揚感をもって聴けることはそうはない。
シベリウスは本当にすばらしい曲を書いたものだ。
で、これを聴いていて思ったことがあった(またしても!^^;)。
最近、運転していて以前はあまり見なかった危ないシーンを見かける。
信号無視を“無意識”にやってしまう車。
意識的にやる確信犯ならまだ事故の可能性は低いが、無意識にやられると大事故の可能性がでかい。
まきぞいにあったら目もあてられない。
これは注意力の緩慢というハッキリした理由だけではない。
人間として存在できている大事な部品の一つが欠落してしまっているかのような想像をした。
それとその人間自身の内面の変化。
あらゆる世代に“こだわり”がなくなってきて単に楽しくラクに生きているだけで満足といったような意識の侵食。
これはまだ実態がよくわからないからあくまで感覚でしかないのだけど、
たまに「この男はこんなにも考えがなく、こだわりもなくよく生きてこれたものだ。それに、これまでの人生で100%の満足感を得ていると言っているが、そんなもんなのか?」という不可解さ。
(人の人生なんてそれぞれが決めて、そいつが満足なら満足であって、何もオレが口を挟むことではないことは知っている。それでも口を挟みたくなるのだ。オレはおせっかいな人間だ。)
今のは一例だけど、人間の意識や心の崩壊がじわじわおこっているような気がしている。
みんなには気づかれないで、ゆっくりと浸透していく・・
要因としてよく取りあげられるメディアの影響や簡単に夢や希望が見つけられない停滞気味の世の中、ということより、もっと深い部分からの“ぐらつき”ではないか。
男と話していて手応えが感じられないという女性の嘆きを聞くが、この傾向はオレもあるとおもう。
大雑把にいえば男の方の薄っぺらさは深刻だ。
女性の方がまだ考えをもっている。
これは男女の根本的な構造が違うとところからきているのだろうが、大丈夫か?男は?右にならえばかりではなにも醸成されない。
それに、男女がお互いに満足する部分は違うからかもしれない。
女性は自分の話をちゃんと共感・理解してもらえる相手を望んでいるかもしれないし、男はそうではなく表面的な部分でやすらぎを与えてくれる人とか、会話はそれほどしなくとも安泰でいたいとか、料理が上手であるとか、一時は愛し合ってもあとはちょっと面倒だな・・とか、そんな相違はいろいろあろう。
それでも、なんなんだろうか?とおもう。
いや、そもそも生き物としての観点からみるとそういうものかもしれない。
これはもちろん全員ではない。そういう傾向がうかがえるということだ。
■今朝の読売新聞にドナルド・キーンさんの音楽評がのっている。
先に来日したウィーン国立歌劇場のことで、小澤さんが指揮した『フィデリオ』を観て、「ベートーヴェンの偉大さを感じたオーケストラ(演奏)」だったと感心していた。
こういう評を読むと無理してでもチケットを入手すればよかったなぁと後悔してしまう^^;
(キーンさんも小澤さんと同じく今年文化勲章が贈られている)
そのドナルド・キーンさんが書かれた『私と20世紀のクロニクル』という本を読んでいる。
キーンさんの文章もたいへん充実した文章でどのエピソードもおもしろくとても勉強になる。