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■昨日は休暇をとって乃木坂の国立新美術館でピカソ展をみてきた。

こんなに一挙にたくさんのピカソ作品を観たのははじめてで、それはすごいものだった。
(サントリー美術館開催のピカソ展には行けなかったので、ここにも近々行ってこよう)


で、その巨大なピカソを観ていろいろと感じたけど、主だったところを・・


まず!ピカソには既成概念という普段われわれが意識させられているような“枠”がない。

彼はもう自由のかぎりに表現していって、なんでもかんでも題材にしてしまい、性に対しても普段から遠慮がちな日本人からみたらあっけいなほどオープンで、しかも深い。

“新聞と瓶”といった日常のなんでもないモチーフでもその本質をとことん追求して表現する。

線も大胆でバーッ!!!と描いて詳細を整えない。そんな小さなことは別にいいといった具合に。

どの絵の前に立っても圧倒的なエネルギーと主張を全身で感じた。

ピカソでないと感じることはない“何か”を。

それとともに展示されていた写真からは愛情あふれた私生活の一面もうかがえた。


で、さっきの「既成概念・・」を表現を変えて言うと・・

我々は「こうしなくてはいけない」と“思い込んでいる”部分がじつに多いことに気づかされたのだ。

これは世界共通のことでもあるが特に日本はその傾向が強く、さらに今後ますますその度合いが増してくる気配がある。

これが是か非かという問題はここでは言わないで、先にすすむ。

日本人には、たとえば“人間の危機”という非常事態に際してさえも、ハッキリとそれについて個人の意見を主張しないのでは。いや、そうではなく、日本には主張する土壌がない。というに考えにいきあたった。

よく日本人は“イエス”しか言わないといわれる(なにせ同調圧力が強い国だから!)

しかし、“イエスマン”でも“ノーマン”(ジェーシー・ノーマンというソプラノ歌手もいるが^^;)ではいけない。どうにもならないし、最終的には進歩や発展は期待できない。

やっぱり本心をみんながフツウに言っていかないとこの国はどんどん泥沼に入っていってそこから抜け出せないのではないか?

この国は主張ができないという風土で凝り固まってしまっている(だれか片栗粉を入れすぎたのか!?)

主張をしてはいけないなんてないし、あってはいけない。
(ニッポンは実は実体のみえない独裁国なのだろか?だとしたらその元凶はなんだ?)

よっぽど封建時代の“公”にモノをいえなかった庶民の方が思慮深かっただろうし、“私”として人々の間では本心でモノを言っていただろう。と勝手に推察する。


■それと、マリーやふくふきママさんが言っていたような服の話もおなじ。

高齢者は“それなりの服”を着ないといけないと高齢者自身も周囲の人も自然と思い込んでいる。

「もういい歳だからこの色はやめておくか・・」なんてのは周囲を意識してのことで本人はそうは思っていない。本当は赤や黄色が着てみたいのにやめちゃう。結果どんどん萎縮してしまう。

なかには健全に元気な高齢者がいて、そういう人はどんどん自然と主張しているし、見ていて清々しいもの。

日常から黒い服を着こんだ女性たちの間柄は“本当の個”が認められない“集団”のみの発言でしか許されないのか?

こう書いていて思い出したけど、リーマンは寒くなってくるとスーツのうえにコートを着る(オレは私服だけど)。

これも笑っちゃう話だけど、男でもそういうのを気にするらしくて、周囲がコートを着ださないと自分は着れない、というのだ。

「なんなんだそれは?おまえが着たければ着ればいいだけじゃん」と言ってやったけどそいつは着ない。

もうそういう話はそこらじゅうに転がっているが、他人の顔色を気にしすぎて自分を失うは、個を出せないで窮屈な思いで苦しむわ、ほんとに日本って国は、でも、みんな大変だよな・・・


もし、それが嫌だと感じたらそこから抜け出す方法はある。

一気に大変革!!・・は到底無理(それにはよっぽどのショックがないと変わらない)。


ただ、一歩、いや半歩だけ自分の心に従ってあげる。

周囲にもあまり分からないような自分の主張。

それでいい。とても大きな進歩なのだから。



ふー・・一気に書いてしまったら疲れた^^;


画像は『泣く女』という作品です。ピカソです。これは『ゲルニカ』の創作過程からうまれた作品。この絵の前には何度か立ったけど観るたびに印象がかわった。“悲劇”とかそういう表題を意識しすぎると本質には近づけないもので、絵画は感覚だけでいいと思っている。


では、また来週^^


じゃんじゃん♪