
■がらにもなくここ最近は仕事が多忙で、新聞すら満足に読めない状態。ものごとも深く考えられなかったので、なんだかたんに生きているだけといった感じ。
べつにものごとを考えなくても生活はできるのだけど、いつも「コレはいったいどういうことなんだろ?」っておもいながらいるので、そのあたりの物足りなさを感じていた。
そうは言っても、忙しなく動きながら頭んなかでうっすらと思考をしているもの。
先週の連休は説明会をしていて、いろんな人と話しをした。
こういう場合、会社用の話し方(公的)と、自分特有の自然な話し方(私的)とのバランスのとり方をみると案外おもしろい。
日本では会社用の話し方をする人が多いようだ。
「もっと個人のカラーをだしても良くないか?それは先方に失礼なことではないし、人と関わっているのにあまりにも人間味が感じられない・・“お客さん”を意識しすぎだろう」といつも思っている(“お客さま”という言葉は好きでないでつかわない)。
僕はできるだけ“個”をだして話す(とはいっても相手の反応をみながら丁寧にですけどね)
仕事の場だけでなく、いろんな場面でそうしちゃう。
はじめて会う人との会話。飲み会とか、街で偶然話す人、お店の人とのたわいもない話し、などもろもろの場合において。
これは私生活でも働いているときでも、どんな場合でも変わらないおなじ人間でいたいという願望が根底にあるからだとおもう。
もちろん、すべてがすべて同じような自分であり続けるというのはなかなか難しいもので、現実には無理だろう。“できるだけ多くの自分をつくらない”ようにしているのかもしれない。
では、なぜ、おなじ自分でいたいのか?
それは、環境・シチュエーション・相手によって自分を変える必要はもともとなかったじゃないか?ということろからくる。変えることがおかしい、と。
しかし現代社会で生きている以上それは非常に大変なことだからやむなく変えざるを得ない(周囲は変えて対応してくるし)。
でも、変えることによって生活しやすいかもしれないが、“大切な何か”を失うことになるかもしれない、という懸念もあってそうおもう。
しかし反面、自分の内面にはいろんな要素があって、これはとても把握しきれないくらい複雑なものだ。
だから、多くの自分を抱えながら、1つの自分でいようとする、というなんだか矛盾した話なんだけど・・
うーん、なんだかよくわからないね(笑)
オレってよくこういうこと考えるのだけど、今の世の中そんなこと考えないでも十分生きていける。
生きていけるからいいんだけど、自分としてはそれだけではどうしても満足しない。
無駄なことかもしれないけど、そういうことをますます突き詰めていこうとおもう。
それには世の中のことを熟知していないと話しにならない。
もっともっと世界を知らないと!!
■さてさて、音楽のはなし。
最近のいちばんはモーツァルトです。
とくにピアノ協奏曲第17番(ト長調 K.453)の第2楽章(ブレンデルのピアノ、マッケラス指揮)は毎日聴いている。
ここにはモーツァルトにはめずらしい“優しいさ”がふくまれている。
とっても幸せな気分になれる。
モーツァルトの音楽には(言葉はほんの一部しか表現できない。音楽を語るとき言語表現の限界を感じる)どこまでもうつくしく、覇気に満ち満ちた輝かしいあかるさ、それと裏っかわにあるとっても悲しい一面をかんじる。
それでも“優しい”と感じるところはほとんどなかった。
このフルートとピアノの調べは、美しいうえに心がふるえるくらい優しい。
ホワーっ・・てなれる(笑)
終楽章は大阪の同業他社に行ったときの終礼の音楽に使われていた^^
軽快で愛らしい音楽。
これはいま思い浮かべても楽しい気持ちになれる。
それと変奏がすごい。
なんど聴いても新たな発見があってその度に感心する。
「やっぱモーツァルトは天才なんだな」って思う瞬間だ。
それとなぜかスガシカオさんの歌もよく聴くんですよ。
ちょっと前にラジオでよく流れていた曲がひっかかって「いい曲だなー」と思ってたけど、肝心の曲名を覚えなかった。
それで前々回のNHK『SONGS』にスガシカオさんがでるというので録画した。
目当ての曲はそこでは歌わなかったけど、新曲の『コノユビトマレ』もすっかり気に入って何度も聴いている。
ファンの方には怒られるかもしれないけれど、彼の歌には古きよき時代の懐かしいカッコ良さがあって、親しみを感じる。
覚えて今度カラオケで歌おうっと^^;
と、そういう感じでした。
じゃんじゃん