ルービー飲みながら書いたんで、よみとりづらい文章かもしれません。。。
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たとえ、どんなにみごとな正義、大義名分がそこにあって自分に命令しようが、自分のことは自分できめるということですが、あらゆる場合にあって、私は、そうした態度をもちつづけることは必要だと思うのです。
正義とか大義名分とかは強いもので、私たちがとにかくその態度をもちつづけることで、正義がいかにも正義面をして私たちのうえにのしかかってくるのをやっとのことでくいとどめることはできるでしょう。
正義が正義面をして横行する社会ほど不幸な社会はないと歴史がよく示しています。
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小田実著『世直しの倫理と論理』(岩波新書)より
この文章をよんで、最近の社会、会社に対するモヤモヤした霧がかかったような想いが、スッと消えて全容がみえてきたようだった。
『正義が正義面をして横行する社会ほど不幸な社会・・』
この文章は約40年前に書かれたもので現在の社会状況を言っているものではない。
それはさておき、なぜ今の時代は、倫理、モラル、品格のことをことさら強調するのだろう。
押し付けがましい・・・
単純な構図として、精神的に大人になりきっていない大人が身勝手なことをしだして、社会がぐらつきだしている。
→これはなんとかしないとならない。
そして、今のような私生活までを規律よく過ごさないといけないような“規律社会”が大手をふって蔓延している。
それは、当初の目的から次第にずれてきて(逸脱しはじめて)、なんにでも干渉するようになってきたからのようにみえる。
なんでもないことまでが規制される。いや、みんなはしてはいけないと思い込んでしまう。
この息苦しい社会、会社はそういうことの“現在”である気がしてならない。
そもそも、倫理感なんていうのは他人から言われてつくられるものじゃない。
小さい頃に親や学校、環境から教えられたことを根本に、自分の内面で試行錯誤してだんだんと形付けられるもの。
ましてや社会のプレッシャーをあげれば倫理的な大人がふえる、なんてわけがない。
こういうことろが空恐ろしい。
当事者も周囲も“正しいこと”を言っている、と思っている。
たしかに正しいが、なにか危険だし、うさんくさいし、オレはけっして同調できないもの(それは根本的に)だと直感でわかってしまっている。
ここでも安に問題に対して対策をうっているだけにすぎない。だからこうしたことになるのだろう。
法律の強化と一緒。
ある懸案がおこったから、すぐに効き目がある特効薬を注入する。
この安直な構図、解決策は一般にも理解されやすく一定の評価もされる。
それはわかる部分もある。しかし、しかし!
その対策の裏っかわにある弊害のことをあまり計算に入れていない。
世の中をつくるキー。世の中を構成するカギはここにあるんじゃないか。
なにかをやったことによる影響。
この影響はとても大きい。
■企業倫理という言葉は、社会全体世の中全体をなにかとんでもない間違った方向に誘う言葉のように響いてきて、嫌気よりも寒気がしてくる。
これは企業を守るためのものであって、けっして社員ためのものではない。
「これをやったらわが社にこんな汚点になって倒産しかねない。だから君達やめろ!」ってことなんだけど、そんなこといちいち言われなくてもやらない。
金をチョロまかすことなんかしないし、新聞に載るような犯罪だってしない。
(まあ、社会・マスメディアも個人だけでなくその企業にまで責任をおしつけている面があるが・・)
それを対策としてしまうから、本来企業の傷にならないようなまったく些細な遊びの部分までもまとめて規制の対象になる。
やり方のうまくないこの国では、ぜったいにこうなってしまうのだ。
今の職場、倫理に関する張り紙や無理な褒め言葉ばかりが多くなってきている。
これではまるであやしい新興宗教のような雰囲気だ。
そのなかにいる人々はしぜんと小さくなり、誰もが無駄話をしなくなっている、キチンと机にすわってパソコンをたたくしかない。
それは不気味な静けさのときもある。
もちろん会社は仕事をするところであるからそんなにぺちゃくちゃじゃべる場ではないのは百も承知だ。やることはちゃんとやる。しかし、無駄話=悪。ちょっとでも仕事以外のことだと悪。という分かりやすい正義がうっすらとフツウになってきている。
それも加速度的になっている。
そもそも業務効率を考えれば、人が集中できる時間などはせいぜい20分が限度だという話もある。
だから適度にゆるい職場であってもなんにも弊害はないはずなのだ。
この辺りの知恵は個人個人には必要。
みんなもっとずる賢くなるべきだ。
従順な羊たちだけではいけない。
■オレはおそらくだけど、入社以来同じようなスタイルでいる。
たまに話す人に言われる。
「まだそういう話し方してるんだ。かわんないねー(笑)」
当時はオレみたいにラフな話し方をするヤツはたくさんいた(ラフというかフツウだけどね)。
でも、まわりは随分と変わった。
振り返ってみると「そういえばあの人、他人行儀的な話し方になっちゃった」って人は何人かいた。
むろん変わらずにアホなまんまの人もいる。
でも「おまえもそろそろまともになれよ」っていう目に見えないプレッシャーは感じている。
そんなのになるわけないけどさ。
ていうか、なれるわけがない。
正義の横行はこわいって話でした。
じゃんじゃん
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たとえ、どんなにみごとな正義、大義名分がそこにあって自分に命令しようが、自分のことは自分できめるということですが、あらゆる場合にあって、私は、そうした態度をもちつづけることは必要だと思うのです。
正義とか大義名分とかは強いもので、私たちがとにかくその態度をもちつづけることで、正義がいかにも正義面をして私たちのうえにのしかかってくるのをやっとのことでくいとどめることはできるでしょう。
正義が正義面をして横行する社会ほど不幸な社会はないと歴史がよく示しています。
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小田実著『世直しの倫理と論理』(岩波新書)より
この文章をよんで、最近の社会、会社に対するモヤモヤした霧がかかったような想いが、スッと消えて全容がみえてきたようだった。
『正義が正義面をして横行する社会ほど不幸な社会・・』
この文章は約40年前に書かれたもので現在の社会状況を言っているものではない。
それはさておき、なぜ今の時代は、倫理、モラル、品格のことをことさら強調するのだろう。
押し付けがましい・・・
単純な構図として、精神的に大人になりきっていない大人が身勝手なことをしだして、社会がぐらつきだしている。
→これはなんとかしないとならない。
そして、今のような私生活までを規律よく過ごさないといけないような“規律社会”が大手をふって蔓延している。
それは、当初の目的から次第にずれてきて(逸脱しはじめて)、なんにでも干渉するようになってきたからのようにみえる。
なんでもないことまでが規制される。いや、みんなはしてはいけないと思い込んでしまう。
この息苦しい社会、会社はそういうことの“現在”である気がしてならない。
そもそも、倫理感なんていうのは他人から言われてつくられるものじゃない。
小さい頃に親や学校、環境から教えられたことを根本に、自分の内面で試行錯誤してだんだんと形付けられるもの。
ましてや社会のプレッシャーをあげれば倫理的な大人がふえる、なんてわけがない。
こういうことろが空恐ろしい。
当事者も周囲も“正しいこと”を言っている、と思っている。
たしかに正しいが、なにか危険だし、うさんくさいし、オレはけっして同調できないもの(それは根本的に)だと直感でわかってしまっている。
ここでも安に問題に対して対策をうっているだけにすぎない。だからこうしたことになるのだろう。
法律の強化と一緒。
ある懸案がおこったから、すぐに効き目がある特効薬を注入する。
この安直な構図、解決策は一般にも理解されやすく一定の評価もされる。
それはわかる部分もある。しかし、しかし!
その対策の裏っかわにある弊害のことをあまり計算に入れていない。
世の中をつくるキー。世の中を構成するカギはここにあるんじゃないか。
なにかをやったことによる影響。
この影響はとても大きい。
■企業倫理という言葉は、社会全体世の中全体をなにかとんでもない間違った方向に誘う言葉のように響いてきて、嫌気よりも寒気がしてくる。
これは企業を守るためのものであって、けっして社員ためのものではない。
「これをやったらわが社にこんな汚点になって倒産しかねない。だから君達やめろ!」ってことなんだけど、そんなこといちいち言われなくてもやらない。
金をチョロまかすことなんかしないし、新聞に載るような犯罪だってしない。
(まあ、社会・マスメディアも個人だけでなくその企業にまで責任をおしつけている面があるが・・)
それを対策としてしまうから、本来企業の傷にならないようなまったく些細な遊びの部分までもまとめて規制の対象になる。
やり方のうまくないこの国では、ぜったいにこうなってしまうのだ。
今の職場、倫理に関する張り紙や無理な褒め言葉ばかりが多くなってきている。
これではまるであやしい新興宗教のような雰囲気だ。
そのなかにいる人々はしぜんと小さくなり、誰もが無駄話をしなくなっている、キチンと机にすわってパソコンをたたくしかない。
それは不気味な静けさのときもある。
もちろん会社は仕事をするところであるからそんなにぺちゃくちゃじゃべる場ではないのは百も承知だ。やることはちゃんとやる。しかし、無駄話=悪。ちょっとでも仕事以外のことだと悪。という分かりやすい正義がうっすらとフツウになってきている。
それも加速度的になっている。
そもそも業務効率を考えれば、人が集中できる時間などはせいぜい20分が限度だという話もある。
だから適度にゆるい職場であってもなんにも弊害はないはずなのだ。
この辺りの知恵は個人個人には必要。
みんなもっとずる賢くなるべきだ。
従順な羊たちだけではいけない。
■オレはおそらくだけど、入社以来同じようなスタイルでいる。
たまに話す人に言われる。
「まだそういう話し方してるんだ。かわんないねー(笑)」
当時はオレみたいにラフな話し方をするヤツはたくさんいた(ラフというかフツウだけどね)。
でも、まわりは随分と変わった。
振り返ってみると「そういえばあの人、他人行儀的な話し方になっちゃった」って人は何人かいた。
むろん変わらずにアホなまんまの人もいる。
でも「おまえもそろそろまともになれよ」っていう目に見えないプレッシャーは感じている。
そんなのになるわけないけどさ。
ていうか、なれるわけがない。
正義の横行はこわいって話でした。
じゃんじゃん