ざっくり系文章です^^;
■なかなか遅々としてすすまない読書が佳境に入りだすと一気にスピードがあがったりする。
夏目漱石の『こころ』がそれで、“先生と遺書”になったとたん小説の展開は急になった。
それまではどんよりとぶあつい雲がのしかかったかのような重苦しい、話しの展開がおそく読むのにいまいちのれなかった(そうはいってもいろんなものを吸収していったのだけど・・)けど、いまは夢中になっている。
それとまたまた小田実さんの本。
こんどは『世直しの倫理と論理』(岩波新書)というのを読み始めた。
これもおもしろくて、この2つを今はもっぱら読んでいる。
小田さんの本は、題名こそ難解なイメージがあるけど、文章は読者にかわりやすく語りかけるようで、読みやすい。
そしてなりよりも作者の着眼がいい。(「“着眼がいい”なんて言うてる場合じゃないやろ」って小田さん言われそうだが^^;)
一般の立場から見たさまざまな見解は、よく語られる形式的で形骸化してしまった“世の中論”ではない。
“総合”ではなく1人1人の思考からというところからモノを見ている。
そういえば、いまこれを書いていて昨日観たETVのことを思い出した。
それは日系アメリカ人の現在を描いたもので、インタヴューを受けていた1人は「日本人は“日系アメリカ人”というくくりでなく個人の○○さんとして接してほしい」と言っていた。
日本人ビジネスマンがアメリカにやってくると、外部と積極的に関与しようとしない傾向があると言っていた。日本人グループの中から出ようとしないと・・。
むろんすべてでないない。そういう傾向が見受けられるということだ。
これは小澤征爾さんのボストン生活でも似たような印象をうけたそうだ。
「日本のビジネスマンは仲間で集まる。会社ということよりもその人の個が前面にでるべきで、個として主張することが大切」だと。
これは閉鎖的といえばそれまでだけど、もっと外へ開く精神がないとそれは“不健康的”だとおもう。
この閉鎖性は日本人の特性としてすでにあるように感じる(これはマイナス側から言っているが、すべての物事はプラスの面もある)。
思えば、この閉鎖性はずっと昔から感じていて、そこには入りたくないと思い続けていた自分があった。
それは今でも同じで、閉鎖性・一様性が強まるとますます外へ飛び出したくなるのだ。
だからかもしれない。
近頃、外へ外へ出たくて仕方がない。
閉鎖的(見方を変えれば仲がいい連帯感と協調性の高い)な社会が健康的でないと思うのは、そこに陰湿な精神が生まれやすいと思うからだ。
実際そういうものを見てきた。
よっぽど精神的に確立された人同士でないと、お互いの行動が気になりすぎるし、妬みなどもうまれてくると思う。
この辺が健康的でない。
すべてではないが、そうなってしまう傾向はどの国の人々にもあるが、日本はその傾向がつよい。
これは、個が確立されていないことと根っこは同じだろう。
考えをかえてみて、閉鎖的になってしまうのは不安なのかもしれない。
それと“めんどうだから”という理由もあるかもしれないが、その時点ですでに健康的でない。
もっと自分を広げたいと思わないのは、その人の精神は萎縮していると思う。
“めんどう”というのは一種の逃避だ。
この“めんどう”だからというのはオレもたまに使うけど、考えてみたらそれは自分への言い訳のときに使う。
もっともすべての事柄に対して厳格に生きることなどは大変だ。
そこまでする必要はないと思っている。
ときにはズルくないと息がつまって仕方ない。
と、かなり話しは脱線して、明確な結論なく終わってしまうのだけど、いま頭んなかにある考えはこんな感じ。
■それと、NEO、終わっちゃいましたねー。
昨日はセクスィー常務は登場するわ、“雨の降る夜に”のコントも最高におかしかったわ、スケバン夜叉(だっけ)のダジャレも「それ、オレも使ってるじゃん」って感じでいつロッカールームに呼びされるか戦々恐々なんだけど、とにかく終わっちゃいました!
また半年後に再開するでしょうから、それを楽しみにまっていましょう^^
じゃんじゃん
■なかなか遅々としてすすまない読書が佳境に入りだすと一気にスピードがあがったりする。
夏目漱石の『こころ』がそれで、“先生と遺書”になったとたん小説の展開は急になった。
それまではどんよりとぶあつい雲がのしかかったかのような重苦しい、話しの展開がおそく読むのにいまいちのれなかった(そうはいってもいろんなものを吸収していったのだけど・・)けど、いまは夢中になっている。
それとまたまた小田実さんの本。
こんどは『世直しの倫理と論理』(岩波新書)というのを読み始めた。
これもおもしろくて、この2つを今はもっぱら読んでいる。
小田さんの本は、題名こそ難解なイメージがあるけど、文章は読者にかわりやすく語りかけるようで、読みやすい。
そしてなりよりも作者の着眼がいい。(「“着眼がいい”なんて言うてる場合じゃないやろ」って小田さん言われそうだが^^;)
一般の立場から見たさまざまな見解は、よく語られる形式的で形骸化してしまった“世の中論”ではない。
“総合”ではなく1人1人の思考からというところからモノを見ている。
そういえば、いまこれを書いていて昨日観たETVのことを思い出した。
それは日系アメリカ人の現在を描いたもので、インタヴューを受けていた1人は「日本人は“日系アメリカ人”というくくりでなく個人の○○さんとして接してほしい」と言っていた。
日本人ビジネスマンがアメリカにやってくると、外部と積極的に関与しようとしない傾向があると言っていた。日本人グループの中から出ようとしないと・・。
むろんすべてでないない。そういう傾向が見受けられるということだ。
これは小澤征爾さんのボストン生活でも似たような印象をうけたそうだ。
「日本のビジネスマンは仲間で集まる。会社ということよりもその人の個が前面にでるべきで、個として主張することが大切」だと。
これは閉鎖的といえばそれまでだけど、もっと外へ開く精神がないとそれは“不健康的”だとおもう。
この閉鎖性は日本人の特性としてすでにあるように感じる(これはマイナス側から言っているが、すべての物事はプラスの面もある)。
思えば、この閉鎖性はずっと昔から感じていて、そこには入りたくないと思い続けていた自分があった。
それは今でも同じで、閉鎖性・一様性が強まるとますます外へ飛び出したくなるのだ。
だからかもしれない。
近頃、外へ外へ出たくて仕方がない。
閉鎖的(見方を変えれば仲がいい連帯感と協調性の高い)な社会が健康的でないと思うのは、そこに陰湿な精神が生まれやすいと思うからだ。
実際そういうものを見てきた。
よっぽど精神的に確立された人同士でないと、お互いの行動が気になりすぎるし、妬みなどもうまれてくると思う。
この辺が健康的でない。
すべてではないが、そうなってしまう傾向はどの国の人々にもあるが、日本はその傾向がつよい。
これは、個が確立されていないことと根っこは同じだろう。
考えをかえてみて、閉鎖的になってしまうのは不安なのかもしれない。
それと“めんどうだから”という理由もあるかもしれないが、その時点ですでに健康的でない。
もっと自分を広げたいと思わないのは、その人の精神は萎縮していると思う。
“めんどう”というのは一種の逃避だ。
この“めんどう”だからというのはオレもたまに使うけど、考えてみたらそれは自分への言い訳のときに使う。
もっともすべての事柄に対して厳格に生きることなどは大変だ。
そこまでする必要はないと思っている。
ときにはズルくないと息がつまって仕方ない。
と、かなり話しは脱線して、明確な結論なく終わってしまうのだけど、いま頭んなかにある考えはこんな感じ。
■それと、NEO、終わっちゃいましたねー。
昨日はセクスィー常務は登場するわ、“雨の降る夜に”のコントも最高におかしかったわ、スケバン夜叉(だっけ)のダジャレも「それ、オレも使ってるじゃん」って感じでいつロッカールームに呼びされるか戦々恐々なんだけど、とにかく終わっちゃいました!
また半年後に再開するでしょうから、それを楽しみにまっていましょう^^
じゃんじゃん