イメージ 1

■人に自分の意思を伝えるときは、主観性と客観性のブレンドがポイントだろう。

あまり感情的にならず客観性をもって思ったことをちゃんと伝えるのは、なかなかワザがいることだ。

コツは・・・なんだろう。

オレの場合でいうと、伝えたいことを言わずに呑みこんだままでいることができない性格だから、言っちゃう。

その性格で今まできたから訓練されたのかもしれない。
いつのまにか自分なりの“ワザ”を習得してきたように感じる(それまでなんどか衝突はあったが)。

ワザと言っても、その状況ごとに方法は異なるわけで、「コレだ!」というひとつのワザなんてあるわけがない。


強いてあげれば・・

「オレはあなたにこのことをどうしても伝えなきゃならない。それはこういうわけだから言うことにした。このことはあなたはどう思うか分からないし、辛いことかもしれないが、どうしてもオレはこういうふうに思うんだ。だから伝えているんだ。」というふうにその理由もちゃんと添えて言うこと。

それで相手はこっちの意思とその理由や経緯を同時に理解することができる。

“理由なき意思表明”よりも数段も理解されやすいし、親切だ。

それくらいの配慮は必要だとおもう。


それと、あまり後の結果を考えないで足を踏みだす勇気。

「どうせなるようにしかならない」という開き直りは時として必要なこと。

そう思う。


■なんでこんなことを言い出したかというと、こんなことがあったから。

昨日、ほんとーーーうに久しぶりにオレが通っていた足立区の小学校に行ってきた。

この門の前に立つのは何十年ぶりだろうか。

小学校卒業後も何度か行ったことはあるけど、その記憶は曖昧。


昨日、門の前で小学生時代のある1つの記憶が色濃くよみがえってきた。

門は休日なので閉まっていた。

校庭で子どもたちがサッカーの練習をしていた。

この校門・・

小学生のときは見上げるほど高かった門が、今は目線の高さくらいで“低い”のだ。

もちろん門の高さは変わらないでオレの背が伸びただけなんだけど、「こうも見える世界は違うものなのか・・」とすこしおどろいた。

で、その思い出。

たぶんオレが小学4年くらいのときかなぁ。

オレと一緒に帰宅する近所のガキのBがどういうわけだか忘れたけど、いじめっ子にやられていた。

門はすでに閉まっていて、それを乗り越えないと帰れない。

オレは早々に乗り越えてBが乗り越えるのを外で待っていた。

Bが門の上までよじ登って、降りてこようとしたときに、ワルで定評のあるCに下からいびられはじめた。

Bはさして抵抗することもなく上のほうで困り果ててしまいには泣きはじめた。

それでもワルガキのCは攻撃をやめようとしない。

オレはそのCの必要以上の“しつこさ”がとても嫌でだんだん腹が立ってきた。

小学生の頃と現在の自分の性格はなんら変わることなく、さして攻撃的でない。

喧嘩だってほとんどやらないし、温和なほうだ。

でも、このときは我慢ができなかった。

でも「コイツに突っかかっていって矛先がオレに向いても嫌だな」とも思っていた。

かといって無視もできない。

ま、ここはいっちょ勇気をだして言うしかないな、ってことで言う事に決めた。

「おい!もうやめろよ。」

ワルガキのCからしてみたらいつものオレらしくもない発言だから、びっくりした。

「なんで○○が言うんだよ!カンケーねーだろ」とか言ってきた。

このあたりは緊張していたから結構リアルに覚えている。

オレも腹は立つわ、心臓がバクバク言うわ、かなり高揚してワケワカンナイ状態だった(笑)

「カンケーなくねー。イヤがってんだからやめろよ!」と言った。

その後、しばらく門の外でCと口論していたけど、なぜか結局Cはあきらめた。

で、門の上から動けなかったBは降りてこれたんだけど、オレはしばらく頭にのぼった血が引かなかったのを覚えている。


オレはガキのころから、どうしても言っちゃわないと納まりがつかないときは言っちゃう性格だった・・と、昨日小さい門の前で思い出していた。

懐かしかった。懐かしくって時間の経過からくるかもしれない不思議な気持ちになっていた。


それでも一度どうしても言わなきゃならない言葉を呑みこんだことがあった。

このときは体調を崩した(笑)

翌朝になって肝臓かどこかに変調をきたしたのか、顔が黄色くなっていて具合がわるくなっていた。

言うのをがまんしてがまんして一夜を過ごしたらこうなった。

だからオレの場合言わずにためこむと病気になっちゃう(笑)


■それと芸術。

これは主観的でないといけない。

芸術は、己の内面の最大限の表現であるべきなので、客観性がまじってはいけない。

客観的な芸術なんてその作家の主張に自信がないだけで中途半端だ。そんなものはおもしろくない。

(観たり聴いたり)接する者が理解するかしないかは問題ではない。


ベートーヴェンの後期弦楽四重奏は主観の塊だ。

晩年のベートーヴェンの深い心の奥底の音楽であって、それを聴くものは理解するかしないかはその人次第。

こういう芸術がおもしろい。

はじめは「なんなんだろう、この曲は・・」って聴いているけど、何度も聴いていてオレも年齢もそれなりになってくると、「あぁ、これはそういうワケかもしれない」なんてなってくる。

聴く方が一歩一歩ベートーヴェンの心情に近づいてきている証拠だ。

これがうれしい。


映画だって客観性があまりに重要視された内容のうすい作品がヒットする。

だから今の映画界って・・って

あ、この終わり方って前回と同じだな^^;


それと、このブログでのオレの文章はできるだけ思ったままを書いているので、けっこう主観的だわな(笑)


ちゃんちゃん