今日9月1日は小澤さんの73回目の誕生日ですね。


■8月28日、夕方6時のまつもと市民芸術館の空は、この日はじめて太陽がのぞいた。

うつくしい夕焼けのせいもあって気持ちが高揚してきた。

まつもと市民芸術館に来たのは今回がはじめて。

年に数えるしかない大きな期待がよせられたコンサート特有のあの雰囲気がロビーから感じられた。

・・などと気取って書いてもこそばゆいのでいつもの調子で^^:


小学4年の娘は「子どもがぜんぜんいないね・・」と言って若干不安そうだったけどじつは淡々としている(笑)
ほんとうに子どもはいなかった。あ、小6くらの女の子が1人いたな。

4階中央の材前列の席は見通しがいいが、手すりが邪魔。

ちょうど目線の高さに来てしまうので、少し前のめりにならないと見えづらいのだ。

真後ろにいたおじさんに「あ、ども。これくらいでも僕の頭って邪魔になりません?ちゃんと見えていますか?」と訊いてみると。

「大丈夫ですよ。でも、この造りはね・・」なんてオペラグラス片手に苦笑いしていた。

それでもここはシックで素敵な劇場だ。


■さて、小澤さん指揮サイトウ・キネン・オーケストラによるヤナーチェクの歌劇『利口な女狐の物語』(全三幕)のはじまり。

チューニングを終えたあとのシーンと静まり返った会場。
「コンコンコン」と小気味いい木を叩く音とともに小澤さんが小走りで現われる。

娘に「ほら小澤さん、見える?」ときくと「うん」と言いいながらじっとピットを見つめている。

始まる前にパンフレットを見ながらストーリーのおさらいをしたんです。

字幕を見ながら舞台を見るのは小学生には難しい。

だいたいのストーリーが頭に入っていれば筋を追うことができるもの。

あとは本人が自由に楽しめばいい。


前奏曲での小澤さんの軽快な指揮ぶりと確実なオケのサウンドを聴いて。

「あ・・やっぱりサイトウ・キネンはさすがだな。小澤さんの体調も心配には及ばないや」と安心してオペラに集中することにした。

オペラの残念なところにオケの音がこもってしまうという点がある。

僕はどうしても音重視でオペラを観てしまうので、これがもったいなぁと思っている。

でも、この日はそれがあまりなくサイトウ・キネンの芳醇な響きが比較的よく聴こえた。


■随所でいろいろ思ったけど、全部書くのは大変だから主要なところだけをつらつらと書いていこう。

小澤さんのつくりだす音楽は、室内楽的でストーリーの真意を強調させるかのような意味深なテンポ。上品でうつくしく、それでいて控え目。

場面転換でのリズミカルなテンポも彼らしく、軽快で重くならない。

このオペラはマッケラス指揮ウィーン・フィルでずっと聴いてきたけど、小澤さんのアプローチはかなり違っておもしろかった。

小澤流といえばそれまでなんだけど、最近の小澤さんらしく音に込める内容の濃さは以前とは違う。

サイトウ・キネン・オケは兵(つわもの)ぞろいのオケだけに、慌てることなどはなく危なげがない。

その分、整然としすぎて物足りなさを感じたときがあったけど、今回はそういうことはなかった。


女狐のビストロウシカにはますます愛着がわいた。

はっきり自己主張しないでただただ雄鶏の言いなりになっている後進的な雌鶏達に業を煮やし、次々にやっつけていく様は爽快感すらおぼえた(笑)

そうそう!そんな雌鶏は穴に埋めてしまえ!って^^;


第3幕(ネタバレありです)

不吉な弦のスタッカートの響きも、荒れることなく手の中に納まっている。

その不吉な旋律をひきずったまま登場するハラシタ(バリトン)の独唱が頭から離れない。

♪オレが旅をして歩いていたら・・♪

不気味なメロディーと独特のつっかえたような歌い方がなんでこんなに気になるのだろうか、あれから何度も聴いている。

そしてラストシーン。

とても美しく優しい音楽ではじまる。

最後の蛙のセリフ
「その蛙はボクじゃないよ。あれは僕のおじいちゃんだよ。みんなはあんたのことを(ボクに)は、は、は、は話してくれたよ」と森番に言う。

森番はおどろいてつい銃を落としてしまう。

明るく壮大な管弦楽とともに切れよく終わる。

でも内容的には曖昧に終わらせる。

作曲者は言っている。
「ここの解釈は観る人に委ねる」と(こういう押し付けないラストシーンはとても好きだ)。

そこで、僕はこう思った。


■それまで続いてきた話の筋から、いきなり脱線するかのようなこのエンディング。
それは、ただ1人で自然の真っ只中に立たされてしまったかような動揺と不思議さ・・。

自然の実態はこういうことなんだよ。生命はどんどん受け継がれて、寿命がくればその生命は息絶えて世代が替わる。

これはごくごく当たり前のことで、それ以外のなにものでもない。
さして意味などもない・・という、原点の状態にさらされる。

さらに、そういう自然の優れたシステムというものを賛歌していて、現代人はもっと自然に目をむけてほしいものだ、とも感じた。

自然と離れて人は生きてはいくことはできない。


■ヤナーチェクは作曲のほとんどを独学で習得し、昔から伝わる民謡を収集し研究をした。

さらに、毎朝森を散歩して鳥の鳴き声やら様々な自然の“音”を音符化していた。

彼は自然に親しんでいて、自然を愛していた。

この歌劇にはそういう要素がふんだんにある。

森番が森でのんびりと昼寝をするシーンがでてくる。

すっかり安心しきって身をゆだねて自然のなかに溶けこんでいる。

夕日を見てその美しさに感動して歌う。

観客も森のなかの一部にいるような気持ちになる。

これはそういう作品なのだ。


■それと、自然への牧歌と同時に“寂しさ”も全体を支配している。

これは、なんだろう。

その1つは人間の“懐古”だと思った。

昔を懐かしむ心情ってヤツだ。

特に男は万国共通で昔を懐かしんで甘い感情に浸ったり、にがい想い出に苦しんだりする生き物だ。

前を向いていけばいいものを、つい過去を振り返ってしまう。

この心の感傷が“寂しさ”の要因じゃないかな。


校長でも森番でも過ぎ去った過去を思い出して胸をいためている。

だからこの歌劇は美しい自然の心地よさとともに、人がする“懐古”という苦味があるのだ。

舞台はさすが。

十数年前に観たストラヴィンスキーの『道楽者の遍歴』にも大変感心したのだけど、今回もとても良かった。

居酒屋のカウンターの内っ側を見せるのはいろんな面で好都合。

照明の素晴らしさも森の牧歌的雰囲気をつくりだしていた。

こういう歌劇はもっと子どもも一緒に観たほうが絶対にいい。

ウィーンに行って国立歌劇場でウェーバーの歌劇を観たときに家族連れをよく見かけた。

国立歌劇場はほぼ毎晩オペラを上演しており、ウィーンに育つ人々はそれにせっして大人になる。

教訓も人生の喜びも盛り込まれたオペラという芸術に、ふつうに接することができてウィーンの人たちはなんと幸せな人たちなんだろうと思った。

日本ではまだまだ敷居が高く、ついでにチケットも高額でなかなか観ることができない。

国家予算を芸術に割り当ててほしいとつくづく思った。


ちなみに娘はけっこう気に入ったらしく、「また観たい!」と言っている。

それはオレも同じだけど、なかなかね^^;

でも、来年も作品によっては連れて行こうと思っている。

こういうのは実際に体験することが重要なのだ。

本気の小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラと歌手たち。

力のある芸術は確実にその人間の内面にいい影響を残していくものだ。

僕だっていまだにその余韻に浸っている。

やっぱり、子どもには音楽だけは教えていきたい。


次回、サイトウ・キネン番外編デス!



じゃんじゃん♪