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メモふうに、思ったままを書いてみました。


■戦争などの混乱期は、人間が人間でない、野生動物のような野蛮な行為をすることがある。

敵国の人間だという理由だけで殺戮がおこなわれる。

命令をうける兵士の気持ちはそれぞれの葛藤があろうが、命令は絶対なものだということが浸透している。

そしてその瞬間、“命令”のせいにして銃の引き金をひく。

目の前で名も知らない人が倒れて、息を引き取るのを見る。

最期を見届けても、自分の行為を肯定にもっていく。

殺人を正当化する。

もちろんすべての人ではないが、混乱期を生きる人間にはこういう一面がある。それがないと生き延びられないから。


中世でも同じようなことが平然とおこなわれていた。
(それに、医学の遅れや疫病の大流行とかもあって、生存率は低かった)

中世の“すべての人々”の気持ちはどうだったんだろう?とたまに考える。

理不尽で不条理な死が身近にあるのが当たり前だったから、知人の死を目のあたりにしてさえも、しっかりと受けとめることができたのか?

正しくない言葉かもしれないが、死の受けとめ方に“慣れて”いたのか?

深い悲しみをしょったまま人生をおくるというのが、みんなに共通したことで、フツウだったのか?・・と。



■昨今の幼稚で身勝手な理由による殺傷事件の容疑者の心中と、混乱期に殺戮をおこなった者の心中の違いはあるのか?と漠然と思う。

あまりにも平坦な容疑者の理由(セリフ)しか報道されない。これではとうてい事件の真髄には達しえない。

どの容疑者もおなじことを言う。

原因の根っこは同じかと思わされがちだけど、そんな単純じゃない。

自分の罪を時代や社会のせいにする、卑怯。

時代や社会による要因はたしかに“無”じゃない。でも、それがいちばんの理由なわけがない。

最終的には、自分の内面から判断して、やったことだ。

他のせいにしてはならない。

それは極端にズルい。



■生きるために殺しあってきた数十億年前の微生物時代から人間になるまでの、途方もない長い時・・

人が生きるために牛や豚は殺してもよく、人は殺してはいけないという現在の常識。

突き詰めると、いろんな不条理が浮かび上がる。


またまた根源的なことを考えなければならなくなった。


なっとくできる理由など見いだせるのか?

「なぜ、こんなことをするのか?」という理由が見えてこないことがいちばんの不安。

原因がわかって、この対策を講じれば問題はなくなる。という簡単な方程式がほしいのだ。

でも、そんな簡単にはこのトンネルは抜けられそうもない。


■連鎖、真似、ある行為をする人の自己のなさに呆れるし、そんなにも弱い、考えのない人、流されてしまう人たちに絶望を感じてきた。

戦後の日本教育はよくなかった。

日本は敗戦後、アメリカ式の教育システムを受け入れざるを得なかった。

当時は高度経済成長期真っ只中で、人々は程良い関係で結ばれ、たまたまこの教育システムがうまくまわっていた。

その頃と今は時代がまったく違う。

世の中は大きく変わってしまったとみたほうがいい。(日本人はある部分で大きく変わった。)


それなのにまだこの表面的知識吸収型教育システムをやっていては“人”は育たない。

近所や周囲の人々の手厚い支え・フォローが希薄な分、なんにも学ばないで大きくなる人間がどんどん世の中に出てくる。

オーストラリアの教育プログラムのように、メディアを疑い、自己の精神確立を目指すような教科がなぜまだこの国にないのか?


それは、そのほうがこの国にとって都合がいいから、あえて意思を持たせないとしか思えない。

モノをしらない、考えることをしらない、疑うことをしらない、良き消費者であり続けさせるべきだと・・

まさにそのとおりの人間が世間を闊歩している。

瞬時に色をかえる情報に翻弄させられ続け、操ることに成功した経営者はどこかでほくそ笑んでいるわけだ。

目の前で困っている人がいても手を差し伸べることができない、判断ができない、無表情な人が多い・・しかも増えていないか?


悲観的にばかりなっている場合じゃない。

前に進まないと。

モノを考えられるような人間になるにはどうしたらいい?

それはいろいろある。

まずは、疑うことだ。

それと1つは、毎度言っていることだけど、“読書と、それを通じての思考のくりかえし”だと思っている(それと、あえて“みんな一緒”という輪から意識の部分で抜けること。孤立することとはまったく違う。むしろ反対の意味)

いろんな年代のもの。いろんな世界の人の書物を根気よく読んで、頭んなかで経験していく。

いろんな考え(知識)を吸収して自分の内面を照らし合わせるわけだ。

慣れない文章を読むのは大変だけど、強い意思があればだんだんと読めるようになってくる。

幅広い多様な知識に触れれば、その人の内面がひろがり“自己”ができあがってくる。

どんな立場・職業の人とも普遍的に会話ができるし、困ったときなどの場合でもそれなりの判断ができる。

比べるネタが多いと、自分がもっとも望むべき選択ができるようになる。

そろそろ、流行に左右されない、“みんな”よりも自分の本来の気持ちを大切に優先してもいいんじゃないか。

そういう人が世の中の主流になれば、望みはあると思う。

これは、自分と周囲のバランスの闘いでもある。



先日大学時代の友人と話したときに、悪い状況が極端までいくと、それはひっくり返えるものだと言っていた。

資本主義の行き詰まりも、究極のギリギリまで追い込まれると、なぜかオセロのコマのように黒から白にパタッとひっくり返る。

オレはそれについては楽観的すぎやしないか?と半信半疑だけど、そのように好転すればいいなぁ、と思う。