■山本周五郎さんの作品は『気概』にあふれている。

“気概”を辞書でみると「苦しいことがあってもくじけない強い心、はげしい意気込み。気骨」とある。

男女のほろ苦い愛情をえがいた『鶴は帰りぬ』でもこの気概が作品のかなめになっている。

読んでいくと、内面からあついエネルギーが湧いてきて、ようし!これからもがんばって生きていこう!というような前向きな気持ちにさせてくれる。

周五郎さんはスウェーデンの作家ストリンドベリイのある言葉を生涯にわたって基礎においていた。

オレもなんどか接しているうちに覚えてしまったこの言葉。


「苦しみつつなお働け、安住を求めるな、この世は巡礼である」


周五郎作品にはこの言葉が底流にながれている。

これは厳しいものだが、無根拠な希望をまったく匂わせないまさに人生の真意をついている言葉だと思っているので、安堵を感じる。

それに、こういうような意識をもっていないと、「なんでいつもオレばっかりが苦しいおもいをしてラクになれないんだ?」「何をやっても楽しく思えないのはなんで?」などの誤解という迷路からぬけだせない。

人生なんてもともと苦くなるようにできているとしか思えない。

それはどんな生き物をみても同じで、地球上の生き物はその誕生から最後の瞬間まで基本的には平安・安住などはなく、大変な思いをしつづける運命にあるのかもしれない。

それを承知でいくと、たまにある楽しいことでも「ああ、良かったなぁ」と思う。

だから反対に、良いことが重なりすぎると怖くなる。

「こんなに良いことがあると、その後ろくでもないこがあるんじゃないか?」とまでは思わないけど、どこかでバランスの作用が働くんだろうな、と。

まあ、そこはそれほど意識しても仕方がない。

そんなことは何度だって経験しているし、これからだってそれは変わらないんだし。

そんなのを怖がっている暇はない。


もし、自分の未来が見える装置があって、それで自分の未来を見ちゃったら、その瞬間から生きる希望をなくしちゃうんじゃないだろうか?

だって、楽しいことより大変なことの方が圧倒的に多いに決まっているんだもの。

「オレってこんな大変なことが待ち構えてるのか・・・」って。

未来を知らないからこそ人は生きていけるのだろう。

そこは楽観的でいいと思う。

タイムマシンなんかつくっても世の中に公表しないでほしい(笑)

だから、天才的な科学者の人よ、自分だけの楽しみで終わらせてくれ。

『ドラえもん』はオレも子どものころから見ているし、ウチの子どもも楽しんで見ている。

でも、本当にドラえもんがいたら、あまりの“知りすぎ”“叶いすぎ”“頼りすぎ”の三拍子で、のびた君はろくな大人にならないんじゃないかと思っている(笑)


■たまにお年寄りの人と話をすると「今の人はなんでもそろっていていいわね。私が子どものころは・・」なんて言ってくる。

まあ、モノの面だけでいえば、必要なものはなんでも手にはいるからそりゃあラクだろう。

でも、その他の時代環境トータルで考えるとぜんぜんラクなんかじゃない。

モノで言えば、ありすぎて困っているくらいだ。


おそらくどんな時代の人間も(感じ方で)大変なのはそうは変わらない。

生き物は(人間は)その状態に慣れちゃう特性があるから、時代時代のいろんな苦労の大小があったとしてもすぐに慣れてくるので、感じ方は一緒なんじゃないかと思う。

まったく根拠のないことだけど、これも地球のバランス作用で、苦労と喜びの度数はどの時代でも一緒なんだと・・

いや、そんな簡単じゃないかもしれない。

いまのアフリカの食料事情や生活環境の劣悪さは、オレ等とはまるでレベルが違う。

どの地域・時代でも同じようなものだと決めつけるのは、結論を急ぎすぎていて正しいことではないな・・


よくいろんな友達と会って話していて、たまに感じることがある。

ものすごく苦労している人は、その反面、すごい充実を知っている、ということ。

これは、苦楽の振動の幅が広いという意味。

反対に、それほど苦労をしていない人は、そんなに大きな喜びは体験できない。

なんかそんなふうに見える。



じゃんじゃん