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好きなことがあってそれをやっている奴は、目が輝いている。

だから子どもはあんなにキラキラと輝いているんだ。

大人とか子どもとかそんな区切りは関係ない。

楽しんでいる奴がいきいきしているものなんだ。



さて、本題です^^

■今回のアバドのモーツァルト交響曲集。

29番と33番がとくにいい。

少人数のオケで、めずらしくピリオド奏法(古典的な演奏方法でビブラートは殆んどかけない)を採用しているが、その響きは厚く充実している。

同じピリオド奏法でもアーノンクールのとはカラーが違って、アバドならではの充実が伝わる。


モーツァルトをはじめいろんな作曲家の作品はこれまで随分と演奏・録音されてきた。

CDもこれだけ名演奏があればもう出さなくてもいいんじゃないか?という考えもあるだろうが、そんなことはない。

これは産業面で言っているんじゃなくて、芸術面での話し。

すぐれた芸術家の新しい解釈による演奏というのは、なんていうか・・我々に大切な可能性を提示してくれるという点で絶えさせてはいけない、と思っている。


もう少し噛み砕いていうと・・・

演奏というのは、作曲家が残したスコアを演奏者(指揮者)が解釈して、そのイメージを実現させるもの。

別の側面からみれば、現在生きている演奏家がスコアをつうじて世の中の繋がりを保ちながら己のなかの芸術性を表す、ということで。

これは、芸術(演奏)と人間の意識の同時進行の進化であるともいえる。
(なんだかよくわかりづらい文章だな・・・ま、浮かんだ言葉を書いていきます^^;)

クラシックの演奏会は博物館の展示物なんかではなく、その対極にあるものでしょう。
(なにもクラシック音楽がすべてであるとは決して思っていないし、ジャンルはそれほど意味がない)

新しい演奏を聴くということは、音楽を聴くよろこびということの他に、人々に大切な要素を植えつけてくれるような気がしている。

アバドの輝かしいモーツァルトを聴いていて、そう思った。


■それと、カラヤンのマーラー『第5』

このCDって数あるマーラー『第5』のなかでもナンバー1なんじゃないかなぁ(僕にとって)。

ラトルが指摘しているようにカラヤンの“攻撃的な指揮”がこの作品にはぴったりくるのかも。

随所にみうけられる感情の爆発はこれまでも聴いたことがないほど説得力がすごい。

この感情の爆発はある意味で共感できる。

特に3楽章最後のコーダのエネルギーはハンパじゃない!

何度聴いても感動して鳥肌が立つのだ。

この“怒り”というか“壮絶”をCDで体験できることはそんなにない。

このスタイルは昨年のヤンソンス指揮バイエルン放送響での『5番』と同じで、オケを聴くうえでの最高の体験ができる。

それにアダージェットでの劇的な表現もオペラの指揮が得意なカラヤンならでは!と思った。

これほどアダージェットに気をひかれたことはかつてなかった。

この『第5』は全編劇的な表現になっていて、カラヤンってマーラーとすごく相性がいいんじゃないか!?と見直してしまった。


じゃんじゃん