■JR西船橋の改札を出たあたりで、中学生の男子たちが頭をくっつけるようにして一生懸命にDSをやっていた。

6人くらいいただろうか。

無言でそれぞれのDSに集中している。

おもしろいんだろうな。

だってあんなに真剣な表情なのだから。

でも元気な子どもたちが無言でほとんど動かずゲームに高じている姿はやっぱり違和感があった。


■こういった風景はどこででも見られる。

小学校から大人まで、場所だってどこでもかまわない。

暇つぶしなんかじゃない。

ゲームがしたくて仕方がないみたいだ。


そういう僕も中高生のときはゲーセンに通っていた。

おもしろかった。

カーレースやシューティングゲームなんかかなりの腕前まで上達したものだ。

ゲームというのははまると抜け出せないような魔力がある。


■ゲームソフトを開発しているエンジニアは何人いるのか分からないが、そんなに大勢ではないだろう。

その少人数のイメージから作られたゲームは、世界がまるまるそのゲームのなかにあるような壮大なものだ。

やっている人は、現実とは違う世界に行って、冒険をしたり戦ったりしている。

でも、その別世界は映像や構成こそ精密に発達しているものの、せいぜい数人のイメージで作られた世界でしかない。

現実の世界とはくらべものにならないくらい狭くて単純だ。

「そんなにどこででもやっていたくなるものか?」と懐疑的になる。

いくらゲームに夢中だといっても、誰かといたら話をした方が自然だし面白いだろうし、本だって読みたいと思うだろうし、音楽だって聴きたい・・


そうだ、オレが不思議な感じを受けたのは、ゲームをしているその姿。

友達や恋人と一緒にいるのに話さない。

まるで、ゲームの方が友人や彼女と話しているよりおもしろく大切であるかのような・・

そんな雰囲気を感じたからだ。


ゲーム開発に携わった人はこの光景を見てどう思うだろうか?

ヒットした現状を喜ぶだろう。

そこに現状を懸念する気持ちとかはあるのだろうか?

・・・いや、これはいい。

あらゆる企業は、さほど世の中の影響を最優先に考えて事業展開しているわけではない。

“しない”のではなく“できない”という実情もある。

資本主義社会では生き残るために手段は選ばず利益をあげ続けなければならないという逃れようもない現実がある。

また、企業がどんなに“きれいごと”を並べたてても、それは世の中の風潮上仕方なくというパターンである。

それでも、世の中全体を見据えたまともな思考で運営している企業だってある(どれほどあるのだろうか)


またまた脱線した。

ゲームだった。


ゲームやテレビは使いようによっては良い面だってある。

それは、ゲームをしたりテレビを見ているときは脳が休んでいるらしいのだ。

なにも考えないでいるので、脳はリラックスできるという。

それに、やっている人はゲームの最終的結末はある程度想定してやっているのではないか?と思った。

別世界にどっぷり入り込むことで、日常と違う安心できる空間を見つけているのかもしれない。

ゲームで激しく戦っていても、そこは自分が安心できる場所・・

そう考えると、現代のストレスが大きい社会には必要なものだとも言えなくもない。


でも、あまりに長時間接していると“考える”という運動が鈍ってしまうと思う。


どんな道具も使い方次第だ。

道具に呑まれるようではいけない。

ここには知恵が必要だ。

もちろんお酒にも飲まれてもダメだけど^^;。


じゃんじゃん、ジャン