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■ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが最晩年に作曲したクラリネット協奏曲(K622)を、ヴィルフガング・マイヤーのバセットクラリネット、ニコラウス・アーノンクール指揮(写真の人)ウィーン・コンチェルトムジクスで聴くと、曲が秘めている本質が鮮明に浮かびあがってくる。

これまで聴いてきた演奏ではあまり気がつかなかったことが多分にあったことは新鮮で嬉しかった。


■さて、このクラリネット協奏曲の終楽章、5分30秒すぎくらいのところで音楽は突如とまる。
弦の、はかなくも透明でうつくしい旋律が頂点を極めたときに、それ以上は進むことができないかのようにフワッととまる。
そして同じ旋律をバセットクラリネットが歌うが、これもとまってしまう。

モーツァルトは意図的にこのように構成したのかもしれないが、僕は、モーツァルト自身も当初は予期せぬ休符だったのでは?と思った。
これ以上の展開を書くことができない、いや、モーツァルトの頭の中ではこの先の音楽が鳴っていたけど、音符♪としては表せなかった。
または“ある何か”に気がついて途中で展開させるのをやめた・・そのようにも聴こえる。

この箇所を何度も聴いてしばらく考えていていた。

この箇所にたどり着くまでの展開もすごく良くて、聴いている方の感情はめいっぱいの状態になってくる^^;

その後にくるナゾの全休符・・

それに、この休符は悲しみに満ちている。

これを聴いてからか、モーツァルトの音楽というのは、基本的に“深い悲しみ”という土台のうえに成り立っている、と思うようになった。

それは彼の人生をずっと支配していて逃れようのなかった運命がひきおこした悲しみ・・
クラリネット協奏曲以外を聴いても、今ではモーツァルトの音楽は悲しみが基礎となって聴こえてくる。

それまでは気がつかなかったモーツァルト作品の深くて広い世界をはじめて見たような気がした。
同時にモーツァルトという人そのものへの愛着というか、関心も高まった・・


■聴きはじめのころのモーツァルトは、美しさや軽やかさの印象が強く、学生のころはコンサートでもモーツァルトでは心地よさのためけっこう居眠りをしてしまった^^;


でも、何度も同じ曲を聴いていくと、どんどん感じ方が変わってくる。
それもクラシックのおもしろいところ。
それは聴いている方の(精神)状態が変化しているからだろう。

さらに、ある音楽を理解するしないは、人間的内面の向上をみる目安にもなっていると思う。

そう言ってしまうと、いかにもクラシックって“お高い芸術”みたいに受けとられるかもしれないが、そんなことはまったくなく、実生活に根付いているもの。

そうでないと、ここまで共鳴しないだろうから。

むかしは僕が「クラシックが好きなんだよ」と言うと。
「お前、また冗談言って!」と、ぜんぜん信じてくれない。
「いやいやほんとにそうなんだよ!」と言ってもムダ。
そのうち「あ、コイツは本当にクラシックが好きなんだな」と分かってくるけど、半信半疑^^;

たまに「クラシックとは高尚な趣味だね~」と言われることがあった。

ぜんぜん高尚じゃない。
むしろその逆。泥臭いものだ。

“高尚”というと、それは“人間”とは乖離している感じがして、芸術とは呼ばないもの。

芸術の役割があるとすれば『どんな人にとってもすぐ身近にあって人間を人間らしく保つためのもの』だと思っている。


モーツァルトやバッハ、ゴッホやピカソを理解する能力は、じつはどの人の内部に大昔からあって、いつでも共鳴できるものなのだと思う。


それにしても、あの休符はなんだろう・・しばらく頭から離れないだろうな(笑)



じゃんじゃん