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■銀座のHMVで久しぶりにCDを買った。
サイモン・ラトル指揮ベルリナー・フィルハーモニカーによるマーラーの交響曲第9番。
待望のCDだ。

演奏はラトルにしては一見(一聴?)普通な表現。
しかし、それは表面的な部分であって何度か聴いていくうちに内部が深い演奏だとわかってくる。
低弦の歌わせ方がいい具合に主張をもっていて、その響きはマーラーの意図を感じさせるようだ(ラトルは低弦の扱いについてはことさら注意をはらう指揮者だ)。
クラリネットの不吉な出来事の前兆をおもわせるおそろしいお告げ。
けっしてスムーズには流れきらない第2楽章のリズムの意味。
必要以上には誇張しない各楽章のクライマックス・・

しかし、ラトルは同じくマーラー『10番』を録音した時ほどの確信を持っていないようにも感じた。

ラトルは現在何を見ているのだろう。何を目指しているのだろう。


それにしても終楽章のadagioは、この世との別れのことを思わずにはいられない曲だ。

ここで意識する“死”とは実際に自分がそうなった場合とはまったく比較にならないくらいの軽い想像でしかない。
そういう余裕のある状態での死の意識ではまだまだ曲の真髄に迫ってはないだろう。

もし自分が不治の病とかになったらこの音楽はこわくて聴けないんじゃないかと思う。
こわいというか、はじめて強く願うであろう「もっと生きていたい!」という欲求がもはや叶わない現実であることに耐えられないというか・・・

いや、その反対に救いになるのだろか。

マーラーの9番はいつだってそんなことを考えさせられる音楽だ。


録音状態はちょっと硬い。生音が響かないでそのままマイクに取り込まれたような。これは聴いていて疲れてくる。


■それと、今朝の電車で。
だいたいいつも乗る場所って決まっていて、名前は知らないがいつものメンバーがそこにいる。
近頃は高齢のおばちゃん2人がさもたのしそうに興奮気味でしゃべっている。

なんとなく聞こえてくるやりとりからこう思った。

基本的に日本人(特に女性同士)の会話は肯定ありきでしゃべっている。
肯定、同調というか、自分の意見と異なる反応がくることは想定していない。
相手の話しにうんうんとうなずいて、肯定しつづけていないといけないような・・

人ってそれぞれ違う考えを持っているのに、それを度外視してまで相手に合わせる。
僕もたまにはそうしちゃうときもあるけど、そういうときは居心地がわるい。

否定をするのでなく主張かな・・

相手にもよるだろうが、ふつうに思ったことを主張すればよくて、合わせることを優先しなくてもいい。

僕も相手が思ったことを言わずにただ同調だけされたら、それは分かるものだし、嫌なものだ。
話しているんだけど、話していないような。


聞いている方の女性が若干煙たそうに感じているように見えた。
それでも人間関係っておもしろいもので、そういう状態でも「自分は良い」と思っていることもある。
なんでもかんでもクリアにしないで、そのままの曖昧な状態が自分には心地良いという場合だってある。

ここも一様ではないね。


じゃんじゃん