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■先週金曜日、東京赤坂のサントリーホール。
指揮者のダニエル・ハーディングが登場すると満席の聴衆から期待のこめられた拍手がおくられた。

マーラーの交響曲第6番『悲劇的』がはじまった。

バーンスタインが『死の行進』と称した壮大な楽章。
第1楽章は意外(?)にも正攻法な演奏。
もっともこの楽章はあまり変化を加える箇所は少ないのだろう。
それでも、ハーディングの華麗なバトンさばきに弦が反応し、アルマのテーマなどは『愛』をことさら強調しているようで興味をひいた。

2楽章はやっぱりスケルツォではなく暖緩楽章(アバド、ラトルもこのスタイルを採用)。
ヴァイオリンも左右両翼の配置(こうでないと!)
「幼い子どもたちが砂地(砂漠?)をヨチヨチ歩くような・・」とマーラー自信が語っている箇所は僕のお気に入り。
この楽章はいちばん良かった。
冒頭から思い入れたっぷりのゆっくりテンポで牧歌的な雰囲気を存分に満喫できた。
ソロの木管楽器も美しく、じっくり聴きいった。

第3楽章から第4楽章へは活き活きとメリハリのきいた表現で、いかにもハーディングらしさが出ていて面白かった。
特に4楽章は“全編クライマックス!”のような怒涛の音楽。

そのためなのか「いったいどこを目指して聴けばいいのか?」みたいな戸惑いを感じた。

マーラーの6番はかなり好きな曲で実演でも何度か聴いていたが、今回のような「?」を思ったことはなかった。
今さらながらこの馴染みの曲が根底から分からなくなったような気がした。
これも考えてみればハーディングの解釈がそれだけ自分にとって問題提起を投げかけてくれたという点で、やはり並の指揮者ではないのだろう、と納得している。

指揮者の最後の棒が振り下ろされて、完全に音がやんだあとの静寂・・
15秒くらいはあっただろうか。
東京のコンサートでこれほど長い静寂つづいたのはめずらしい。
こういう余韻はとても大切なもの。
これも演奏の一部なのだから。
指揮者が完全に棒をおろして一呼吸おくまでは演奏は続いているのだ。


それにしても、マーラーはいったい何を考えて『悲劇的』を書いたのだろう。

音楽を聴いているとその当時の作曲家の心情を想ったりしている。

『悲劇的』という副題がついているわりには響きはどこか明るい。
巨大なハンマーの強打が加わるトゥッティ(2回)でも絶望的な色は感じられない。
チェレスタやハープが色彩の艶やかさを強調しているからだろうか。

初めは本当に悲劇的な音楽を構想していたけど、実際には何らかの理由でそうはならなかったのだろうか。

作曲家(他の分野の芸術家も)は、結局は生涯をとおして『1つのもの』を追求し、描こうとしているのではないか?とよく思う。

どの作風も似ているのはそのためかもしれない。

この後に書かれる『第9』は『悲劇的』の進化したような音楽とも僕は思うときがある。

たしか・・・マーラーはこの曲を書いた後に、自分の子どもを亡くすという本当の悲劇を経験することになったのだ。


あと気になったのは、昨年11月に聴いたヤンソンスとバイエルンのマーラー第5番があまりに素晴らしい演奏だったことが、今回の演奏が多少不満を感じてしまっているのにつながっているということ。

あれが基本にある限り、マーラーで完全に満足できる演奏に出会える可能性は低くなってしまったのかもしれないなあ・・・。


じゃんじゃん♪